は妖婆アダムウイッチが、床の上に仆《たお》れたまま、まだグウグウ睡っている。電気時計の指針は、もう午前六時を指している――また禁句禁句――のに、彼は目が覚めない。受信機のスイッチをひねって置けば、この辺でラジオ体操が始まり、江木《えぎ》アナウンサーのおじさんが銅羅声《どらごえ》をはりあげて起してくれるのだが――彼、梅野十伍はいつもそうしている。但し床から離れるのは彼ではなくて、小学校にゆく彼の子供である。彼はラジオ体操を聴けば安心して、更にグウグウ睡れるのである。――生憎《あいにく》妖婆は前の晩に深酒をして、寝るときにスイッチをひねっておくことを忘れたので、ラジオ体操が放送されていても彼の妖婆には聞えなかった。そんなわけでとうとう妖婆は午前六時に唱うべき天帝に約束の三度の呪文をあげないでしまう。
 その結果は、お城の下にどんな光景を演出するに至ったであろうか。
 ルリ子はうららかな太陽の光を浴びながら、梅田十八と抱き合っているうちに、急に梅田の身体が消えてしまって、弾みをくって瞠《どう》とベンチの上に長くなって仆れる。そのとき彼女の身体の下から、二十日鼠が飛びだした。そしてその二匹の二十日鼠が、チョロチョロと向うへ逃げてゆく、二匹の二十日鼠と書くと読者は、彼作者が寝呆けて一の字を二の字に書いてしまったと思うかもしれない。しかし読者は間もなく後悔するに違いない。作者はこんな風にそのところを書く。――
「――もちろん一匹の二十日鼠は、哀れな梅田十八の旧態にかえった姿だった。他の一匹は臙脂色のワンピースが旧態にかえった姿だった。ルリ子は自分が白日《はくじつ》の下に素裸になっているのも知らず、ベンチから立ち上った」
 と、するのである。
 その辺で、きっとニヤリと口を曲げる読者が一人や二人はあるに違いない。
 作者の彼にとっても、あまり悪い気持がしないのであったけれど、これでは探偵小説にはならない。
「ほう、もう四時だ。これはいけない」
 原稿を書くことを忘れて、うっかりいい心地になっていた梅野十伍は、時計の指針を見て急に慌てだした。彼は随分時間を空費した、早く書き出さねば間に合わない。探偵小説、探偵小説、探偵小説ヤーイ。
 探偵小説ということについては、なかなか喧《やかま》しい定義がある。梅野十伍は、普段そんな定義にあまりこだわらない方であるが、この際は原稿大難航の折柄のこととて、一方の血路を切り開いて兎《と》も角《かく》も乗り切ることが第一義であった。一応その定義に服従して、結果を出すのがいいであろう。
 学説に拠《よ》れば探偵小説とは謎が提供され、次に推理によってその謎を解く小説のことである。つまりここに一つの謎があって、その謎を構成している諸材料に関する常識乃至《ないし》は説明だけの知識でもって、その知識の或る部分を推理によって適当に組合わせてゆくとそこで謎が解けるそのような推理体系を小説の形で現わしたものが探偵小説だというのである。
 鼠の顔を推理で解いて、果してどういう答がでるだろうか。
「鼠の顔とかけて、何と解きなはるか」
「さあ何と解きまひょう。分りまへんよってにあげまひょう」
「そんなら、それを貰いまして、臥竜梅《がりゅうばい》と解きます」
「なんでやねン」
「その心は、幹《みき》(ミッキー)よりも花《はな》(鼻《はな》)が低い、とナ」
 これは単なる謎々であって、探偵小説ではない。第一その謎を解く鍵《キイ》が、至極フェアとまではゆかない。無理な着想を強《し》いる。
 もしこれが探偵小説の形で発表されていたにしても、その点で優等品とはゆかない。そうした欠点は、この謎を作るときに建てた推理が謎を解くときの推理と全く逆であるところに無理がある。つまり素直なる順序によってこの「鼠の顔」の謎を解いたわけではなかったのだ。逆ハ必ズシモ真ナラズとは、中学校――もちろん女学校でもいいが――で習う幾何の教科書に始めて現れるが、上記の場合は正に必ズシモの場合なのである。
「鼠の顔」の謎を拵《こしら》えるというので、まず鼠に因《ちな》むものはないか考えた。そしてミッキーを得た。――ミッキー・マウスではすこし長すぎて手に負えない。
 それが決まると、ミッキーと「鼠の顔」との連鎖事項を考える順序となる。但しその連鎖事項たるや同時に「鼠の顔」とは全く違う他のものを説明するものでなければならぬ。ここに至ればもう運と常識の戦争である。幸い臥竜梅を早く思いついたから、それで謎は出来上ったことにしたわけだが、その連鎖事項がすこし薄弱性を帯びていることを否《いな》み得ない。
 謎々はこうして出来上ったが、前にも云ったとおり、謎の答から謎の説明を考究していったのだから、その謎を解くとき「鼠の顔」の連鎖事項を探して、謎の答を推理してゆくのとはちょうど逆の順
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