軍用鮫
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楊《ヤン》博士
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)糸|蚯蚓《みみず》
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北緯百十三度一分、東経二十三度六分の地点において、楊《ヤン》博士はしずかに釣糸を垂れていた。
そこは嶮岨な屏風岩の上であった。
前には、エメラルドを溶かしこんだようなひろびろとした赤湾が、ゆるい曲線をなしてひらけ空は涯しもしらぬほど高く澄みわたり、おつながりの赤蜻蛉が三組四組五組と適当なる空間をすーいすーいと飛んでいるという、げに麗らかなる秋の午さがりであった。
楊《ヤン》博士の垂らしている糸は、べらぼうに長い。もちろんひどい近眼の博士に、はるけき水面を浮きつ沈みつしている浮標《うき》などが見えようはずがなかった。博士は、ただ釣糸の上を伝播してくるひそかなる弦振動に、博士自身の触覚感を預けていたのであった。
目の下二尺の鯛が釣れようと、三年の鱸《すずき》が食いつこうと、あるいはまた間違って糸|蚯蚓《みみず》ほどの鮠《はえ》(註に曰く、ハエをハヤというは俗称なり。形鮎に似て鮎に非なる白色の淡水魚なり)がひっかかろうと、あるいは全然なにも釣れなくとも、どっちでもよいのであった。釣を好むは糸を垂れて弦振動の発生をたのしむなり。いや弦振動の発生をたのしむに非《あら》ず、文王の声の波動を期待するのにあったろう。
楊《ヤン》博士は、近代の文王とは、誰のことであろうかなどと、つれづれのあまり考えてみることもあった。チャンカイシャという青年将校が文王になりたがっていたが、あれは今どうしているだろうかなどと、博士は若い頃の追憶にふけっていた。
「ああ楊《ヤン》博士、ここにおいででしたか」
と、突然博士は自分の名をよばれてびっくりした。
顔をあげてみると、そこには立派なる風采のトマトのように太った大人が、女の子のような従者を一人つれて立っていた。博士はその方をジロリと見ただけで、またすぐ沖合の灰色のジャンク船の片帆に視線はかえった。
「ああ楊《ヤン》博士、あなたをどんなにお探ししていたか分りません。周子の易に(北緯百十三度、東経二十三度附近にあり、水にちなみ、魚に縁あり、而して登るや屏風岩、いでては軍船を爆沈す)と出ましたが、ああなんたる神易でありましょうか」
「……」
博士は闃《げき》として
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