、化石になりきっていた。
「もし楊《ヤン》博士、猛印からのお迎えでありますぞ」
「猛印といえば――」と博士はこのときやおら顔をあげて、「猛印といえば、北京の南西二五〇〇キロメートル、また南京の西南西二〇〇〇キロメートル、雲南省の遍都で、インド王国に間近いところではないか。雲南などへ迎えられては、わしは迷惑この上なしだ」
「いや博士、猛印こそわが中国の首都でありますぞ」
「わしを愚弄してはいかん。中国の首都がインドとわずか山一つを距《へだ》たった雲南の国境にあってたまるものか。第一そんな不便な土地に、都が置けるかというのだ。この屏風岩から下へとびこんで、頭など冷やしてはどうか」
「いやそれが博士、あなたのお間違いですよ。あなたこの頃、ニュース映画をごらんになりませんね。首都が北京だったのは五、六年前です。それから南京に都はうつり――」
「それは知っとる。首都は南京だろう」
「いえ、ところがそれ以来、また遷都いたしまして、今日は西に、明日はまたさらに西にと遷都して、もう何回目になりますか忘れましたが、とにかく目下のところ中国の首都は、さっき申した猛印にありますのです」
「わしは地理学をよく知らんが、首都をそのようにたびたび変えることは面白くない。第一そうたびたび首都が変って朝《あした》に南京を出で、夕《ゆうべ》西にゆくでは、経費もかかってたまるまい。贅沢きわまるそして愚劣至極の政府の悪趣味といわんければならん」
「いえ贅沢とか趣味とかいう問題ではないのです」
 と、トマト氏は今にも泣きだしそうな顔であった。
「――つまり、そ、それにつきまして、楊《ヤン》博士をお迎えにあがりましたような次第でございまして――」
 と、彼は懐中から恭々しく、大きな封書をとりだして鞠窮如《きくきゅうじょ》として博士に捧呈した。
 楊《ヤン》博士は、釣糸をトマト氏に預けて、馬の腹がけのように大きい書面をひらいて、その中に顔を埋めた。
 そこには、墨くろぐろと、次のような文章が返り点のついていない漢文で認めてあった。
 ――支那大陸紀元八十万一年重陽の佳日、中国軍政府最高主席委員長チャンスカヤ・カイモヴィッチ・シャノフ恐惶謹言頓首々々恭々しく曰す。こいねがわくば楊《ヤン》大先生の降魔征神の大科学力をもって、古今独歩未曾有の海戦新兵器を考案せられ、よってもって我が沿岸を親しく下り行きて、軍船を悉く
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