い霧の中を、二人は前になり後になり、必死に駈けだした。
それでも、とにかく博士の追跡をのがれて、首領《かしら》ウルスキーとワーニャは、一時間あまり後に仏租界《ふつそかい》に聳《そび》えたつ大東新報《だいとうしんぽう》ビルの裏口の秘密|扉《ドア》の前に辿《たど》りついた。
悪漢《あっかん》ウルスキーなる人物は、マスクを取ると、いま上海《シャンハイ》国際社交界の大立者《おおだてもの》として知らぬ人なき大東新報社長ジョン・ウルランドその人に外ならなかった。ウルランド氏は、謹厳《きんげん》いやしくもせぬ模範的紳士として、社交界の物言う花から覘《ねら》いうちの標的《まと》となっていた人物だった。
秘密ボタンを押すと、扉《ドア》がひらいた。二人はビルの中へ転《ころ》げこむように入っていった。
奥まった密室の安楽椅子《あんらくいす》のうえに身体をなげだすと、二人は顔を見合《みあわ》せた。
「おいワーニャ。なんだって、あれほど大切な壜を床の上に落したんだ。大きな苦心を積んで、やっと手に入れたと思ったのに、手前の腕も鈍《にぶ》ったな」
「鈍ったといわれちゃ、俺《あっし》も腹が立ちまさあ。なアに、あの壜には長紐《ながひも》がついていて、その元を卓子《テーブル》にくくりつけてあったんです。その紐てやつが、やっぱり目に見えないやつだったんで、俺だって化物《ばけもの》じゃないから、見えやしません。腕からスポンとぬけて、足の下でガチャンといったときに、ハハア目に見えない紐がついてたんだなと、気がついてたってえわけです。化物でもなけりゃ、はじめから気がつく筈がない。――」
「ワーニャ、愚痴《ぐち》をいうのはよせ。いまさらグズグズいったって、元にかえりゃしない」
ウルスキーは腹立たしそうに、太い葉巻をガリガリと噛んだ。
「ねえ、首領《かしら》」とワーニャは機嫌をとるようにいった。「楊博士の奴は、ひどく悄気《しょげ》てたじゃないですか。たかが、たった一本の毛のことでねえ。莫迦《ばか》らしいっちゃないや」
「うん。学者なんてものは、おかしなものさ。だが――」と彼は起き直って「あれがほんとに十萬メートルの上空で採取《さいしゅ》したもので、火星の生物の毛ででもあったら、こいつは素晴らしい新聞の特種《とくだね》だ。よオし、こいつは儲《もう》け仕事だ。オイ、ワーニャ、お前すぐ編集次長のカメネフを電話でよびだせ」
「でも首領」とワーニャは急に不安な顔をして「そいつは大きに考え物ですぜ。あの宝物の毛をなくしたことについて博士は千萬ドルの紙幣を焼かれたようにブルブル慄《ふる》えて怒っていましたぜ。あいつはきっと復讐せずにいないでしょう。ああそれなのに、あの火星獣《かせいじゅう》の毛のことをうちの新聞に素っぱぬくなんて、彼奴の憤慨《ふんがい》の火に油を注《そそ》ぐようなものですよ。そしてもしか、社長がギャングの大将だと嗅《か》ぎつけられてごらんなさい。そのときは新聞の読者は半分以下に減《へ》りますよ。これは考えなおしたがいい」
「なにを臆病《おくびょう》なことをいいだすんだ。こんな素晴らしいチャンスを逃がすなんてえことが出来ると思うかい。引込んでいろ」
「だって首領。あの楊博士と来た日にゃ……」
「うるさい。黙ってろ」
ウルスキーは肘掛椅子《ひじかけいす》からバネ人形のようにとびあがって、喫いかけの葉巻を力一杯|床《ゆか》にたたきつけた。
その夜は無事に過ぎた。
次の日のお昼休みにレーキス・ホテルに出かけたウルスキーならぬ大東新報社長ウルランド氏は、午後二時になっても社へ戻ってこなかった。十分すぎに、例の火星獣の毛の原稿を抱《かか》えて待っていた次長が、遂に待ちかねてホテルに電話をかけた。すると意外なる話にぶつかった。
「ウルランド氏の姿が、貸切りの休憩室に見えなくなっているんです。部屋には内側からチャンと鍵がかかっているのに、どうされたんでしょうか。これから警務部へ電話をして、警官に来て貰おうと思っていたところです」
「なんでもいいから早く社長を探してくれ。急ぎの原稿があるんだ。社長に早く見せないと、乃公《おれ》は馘《くび》になるんだ」
そういった次長も、上衣《うわぎ》をつかむが早いかすぐエレベーターの方に駛《はし》っていた。社長を至急探しださねばならない。
工部局の警官隊がロッジ部長に引率《いんそつ》されて、レーキス・ホテルにのりこんできた。休憩室の扉《ドア》は、華《はなや》かに外からうち壊《こわ》された。一行は、誰もいない室内に入ったときに、なんだか低い唸《うな》り声《ごえ》を聞いたように思ったが、室内を探してみると、猫一匹いなかった。全くの空室《あきしつ》だった。
「いいかね。ウルランド氏は室内に入ると、内側から鍵をかけて、上衣をこの椅子の上にかけ、
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