靴をぬぎ揃えてこっちのベッドに長々と寝た。――それだけは推理で分っとる」
 とロッジ部長は得意そうに、あたりを見廻したが、事実ウルランド氏の靴も上着も、そこには見えなかったのである。社長は服装ごと、どこかに姿を消してしまったのである。
 ウルランド氏の失踪事件《しっそうじけん》は、たちまち上海《シャンハイ》の全市に知れわたった。
「大東新報社長、白昼《はくちゅう》レーキス・ホテルの密室内に行方不明となる!」
「ウルランド氏の失踪。ギャング団ウルスキー一味の仕業《しわざ》と見て、目下手配中!」
 などと、新聞やラジオでは、刻々にその捜索模様を報道して、町の人気をあおりたてた。騒ぎは、ますます大きくなってゆく。
 工部局の活動、秘密警察の協力、素人探偵の競演――などと、物すごいウルランド氏捜索の手がつくされたが、ウルランド氏の消息は更にわからなかった。
 今日こそは、明日こそはと、市民たちもウルランド氏の発見を期待していたが、すべては空《むな》しく外《はず》れてしまい、やがて二週間の日が流れた。ウルランド氏の生命は、誰の目にも、まず絶望と見られた。
 ところがここに一人、ウルランド氏の生命の安全なることを知っている人物があった。それは当のウルランド氏そのひとに外《ほか》ならなかった。
 彼は、もうかれこれ十日あまりも、町の騒擾《そうじょう》を見てくらしているのだった。彼は、ショーウインドーらしき大きな硝子《ガラス》をとおして、一部始終を眺めて暮らしているのだった。彼の前には、紛《まぎ》れもなく賑《にぎや》かな上海《シャンハイ》、南京路《ナンキンろ》の雑沓《ざっとう》が展開しているのだった。それも暁《あかつき》の南京路の光景から、明《あけ》る陽《ひ》をうけた繁華《はんか》な時間の光景から、やがて陽は西に傾《かたむ》き夜の幕《とばり》が降りて、いよいよ夜の全世界と化《か》した光景、さては夜も更《ふ》けて酔漢《すいかん》と、彼の手下どもが徘徊《はいかい》する深夜の光景に至るまで、大小洩《だいしょうも》れなく、南京路の街頭を見つくし見飽《みあ》きているのだった。
 どうしたことからこうなったのか、彼には始まりがよく分らなかった。
 ともかくも、捕虜《ほりょ》になったなと気がついたときは、今から十日ほど前のことだ。彼はこのショーウインドーの中に長々と伸びていたのだ。
 それからこの細長いショーウインドーの中の生活が始まった。彼は一歩もその中から出されなかったのだ。
 彼の目の前を過ぎゆく人に向って、SOSを叫んだ。硝子をドンドン叩いて、通行の人の注意を喚起《かんき》した。しかし誰一人、彼の方を見る者がなかった。
「変だなア。なぜ、こっちを見てくれないんだろう」
 彼は諒解《りょうかい》に苦しんだ。彼の鼻の先に男や女がとおるのである。それにも拘《かかわ》らず、誰もこっちを向いてくれない。こんな情《なさ》けない話はなかった。
 或るときは、市民の一人がショーウインドーに背をもたせかけて、大東新報を読みだした。彼は自分の失踪事件がデカデカとでてるのを知った。
「おい、ウルランドはここにいるんだ」
 とその男の背中と思うあたりの硝子を破《わ》れんばかりに叩いたが、彼は背中に蚤《のみ》がゴソゴソ動いたほども感じないで、やがて向うへいってしまった。
 三日目に、手下のワーニャが乾分《こぶん》をつれてゾロゾロと通っていった。彼は必死になって、手をふり足を動かし、ゴリラのように喚《わめ》いたが、それもやっぱり無駄に終った。
 雑沓のなかの無人島に、彼はとりのこされているのだ。普通の無人島ならば、救いの船がとおりかかることもある。だが、この細長い巷《ちまた》の無人島は、完全に人間界を絶縁《ぜつえん》されてあった。
 三度三度の食事だけは、妙な孔《あな》からチャンと差入れられた。それは子供が食べるほどの少量だったので、彼はいつもガツガツ喰った。
 排泄作用《はいせつさよう》が起ったときには、そこに差入れてある便器《べんき》に果《は》たした。はじめは雑沓《ざっとう》する大通りを前にして、とてもそんな恥《はず》かしいことは出来なかったが、どうやらこっちから往来が見えても、外からこっちが見えないと分ってからは、すこし気が楽になった。そのうち彼は往来を檻《おり》の中の猿のようにジロジロ眺《なが》めながら用を足すまでになった。
 通行人の新聞面を見ていると、いよいよ彼ウルランド氏の生命は絶望となったと出ていた。彼はもうすっかり弱りきって、腹を立てる元気もなかった。
 十一日目に、はじめて彼のうしろの壁から人の声が聞えてきた。
「悪漢《あっかん》ウルスキーよ。その硝子函《ガラスばこ》の居心地《いごこち》はどうじゃネ」
「あッ、――」とウルランド氏は顔色をかえた。それは正《
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