まさ》に、例の楊博士《ヤンはかせ》の皺枯《しわが》れ声《ごえ》に相違なかったのである。
「はッはッはッ。今ぞ知ったか。消身法《しょうしんほう》の偉力《いりょく》を」
「なにッ」
「汝《なんじ》の手に触《ふ》れる板硝子と、往来から見える板硝子との間には、五十センチの間隙《かんげき》がある。その間隙に、儂《わし》の発明になる電気|廻折鏡《かいせつきょう》をつかった消身装置が廻っているのだ。汝《なんじ》の方から見れば外が見えるが、外から見ると何も見えないのだ。どうだ分ったか」
ウルランド氏は蒼白《そうはく》になって戦慄《せんりつ》した。
「おいひどいことをするな。早くここから出してくれ。貴様の云うことは何でも聞くからここからすぐ出してくれ」
楊博士は薄笑いをして、
「まあ当分そこに逗留《とうりゅう》するがいい。だが町もいい加減《かげん》見飽《みあ》きたろうから、消してやろう」
そういった声の下に、今まで見えていた往来《おうらい》が、まるで日暮れのように暗くなり、やがて真暗《まっくら》なあやめも分らぬ闇と変りはてた。その代り電灯が一つポツンとついた。
それと入れ代って、繁華《はんか》な南京路《ナンキンろ》の往来では、俄《にわ》かに騒ぎがはじまった。ショーウインドーの中で、半裸体《はんらたい》になった紳士が、いかがわしい動作を通行人に見せているというので、たいへんな人だかりだった。
そのうちに、何だあれは行方不明のウルランド氏ではないかといい出した者があり、それは一大事だと騒ぎはますます大きくなっていった。これは楊博士が、消身装置の廻折鏡を反対に廻したために、今まで見えていたショーウインドー外《がい》の光景が見えなくなり、その代り今まで外から見えなかったショーウインドーの内部が明らさまに見えるようになったのだった。そういうこととはしらず、ショーウインドーの中のウルランド氏は悠々と公衆の面前で用をたしている。市民は愕《おどろ》きかつ呆《あき》れ、やがてはとめどもなく笑いだした。なんという無恥《むち》であろうか。
警官隊が駈けつけたが、そのウルランド氏を堅固《けんご》な硝子函《ガラスばこ》の中から救いだすには、まる一日かかった。二枚の板硝子の間に仕掛けられていた楊博士の消身装置は、その救助作業のうちに壊《こわ》されてしまった。
救い出されたウルランド氏は、転《ころ》んでも只《ただ》は起きない覚悟で、遭難記を自分の大東新報に掲《かか》げたが、それは市民たちの侮蔑《ぶべつ》を買っただけであった。社交界にウルランド氏が現れたときは、さすがの貴婦人たちも、一せいに背中を向けた。誰も彼もニュース映画によってウルランド氏の生理現象を詳《つまびら》かに見ていたので、そういう人物と握手しようとは、誰一人として思わなかったのである。
ここに於《おい》て楊博士の復讐《ふくしゅう》は、ようやく成ったようであるが、その後、この広い上海《シャンハイ》のなかに博士の姿を見た者は只の一人もなかった。
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年10月21日作成
2003年5月11日修正
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