月世界探険記
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)月世界探険《つきのせかいたんけん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ウイルソン山|天文台《てんもんだい》
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新宇宙艇
月世界探険《つきのせかいたんけん》の新宇宙艇は、いまやすべての出発準備がととのった。
東京の郊外《こうがい》の砧《きぬた》といえば畑と野原ばかりのさびしいところである。そこに三年前から密《ひそ》かにバラック工場がたてられ、その中で大秘密《だいひみつ》のうちに建造されていたこのロケット艇《てい》は、いまや地球から飛びだすばかりになっていた。魚形水雷《ぎょけいすいらい》を、潜水艦ぐらいの大きさにひきのばしたようなこの銀色の巨船は、トタン屋根をいただいた梁《はり》の下に長々と横たわっていた。頭部は砲弾のように尖《とが》り、その底部には、缶詰を丸く蜂の巣がたに並べたような噴射推進装置《ふんしゃすいしんそうち》が五層《ごそう》になってとりつけられ、尾部は三枚の翼《つばさ》をもった大きな方向舵《ほうこうだ》によって飾られていた。銀胴《ぎんどう》のまん中には、いまポッカリと丸い窓が明いている。いや窓ではない。人間が楽にくぐれるくらいの出入口なのだ。その出入口をとおして、明るい室内が見える。電気や蒸気を送るためのパイプが何本となく壁を匍《は》いまわり配電盤には百個にちかい計器《メートル》が並び、開閉器《スイッチ》やら青赤のパイロット・ランプやら真空管が窮屈《きゅうくつ》そうに取付けられていて、見るからに頭の痛くなるような複雑な構造になっていた。
通信係の六角進《ろっかくすすむ》少年は、受話器を耳にかけたまま、机の上に何かしきりと鉛筆をうごかしていたが、やがて書きおえると、ビリリと音をさせて一枚の紙片《しへん》を剥《は》いで立ち上った。そこで電文をもう一度読みなおしてから、受話器を頭から外《はず》し、
「艇長《ていちょう》、艇長。……ウイルソン山|天文台《てんもんだい》から無電が来ましたよ」
といって、後をふりかえった。
「なに、ウイルソン山天文台からまた無電が……」
艇長の蜂谷学士《はちやがくし》は、手を伸ばして、進少年のさしだす紙片《しへん》をうけとった。その上には次のような電文がしたためられてあった。
「ワレ等ノ最後ノ勧告《かんこく》デアル。『危難《きなん》ノ海』附近ニハ貴艇ノ云ウガ如キ何等ノ異変ヲ発見セズ。貴艇ノ観測ハ誤《あやま》リナルコト明《あきら》カナリ。ワガ忠告ヲ聞クコトナク出発スレバ、貴艇ノ行動ハ自殺ニ等シカラン」「自殺ニ等シカラン――か。そういわれると、こちらの望遠鏡がいいのだと分っていても、やっぱりいい気持はしないナ」
と、蜂谷学士は呟《つぶや》いた。
この新宇宙艇が、非常な決心のもとに、新《あら》たに月世界探険に飛びだしてゆくのは、一つには今から十年前の昭和十一年の夏、進少年の父親である六角博士《ろっかくはかせ》ほか二名が月世界めざしてロケット艇をとばせたまま行方不明となった跡を探し、ぜひ月世界探険に成功したいというためでもあったけれど、もう一つには、このたびの探険隊の持つ電子望遠鏡が、最近はからずも月世界の赤道《せきどう》のすこし北にある「危難の海」に奇怪《きかい》な異物《いぶつ》を発見したためであった。その異物はたいへん小さい白い点であって、正体はまだ何物とも分らなかったけれど、とにかく今から五十四日前に突然現われた物であって、それは以前には決して見当らなかったものであった。そもそも月世界《つきのせかい》は空気もない死の世界で、そこには何者も棲《す》んでいないものと信ぜられていた。だから「危難の海」に現われたこの小さい白点《はくてん》は、月世界の無人境説《むじんきょうせつ》の上に、一抹《いちまつ》の疑念《ぎねん》を生んだ。
念のために、二百|吋《インチ》という世界一の大きな口径の望遠鏡をもつウイルソン山天文台に知らせて調べてもらった。しかしその天文台では、「何《な》にも見えない」という返事をして来たのだった。そしてわが新宇宙艇が月世界探険にのぼる決心だと知るとたいへん愕《おどろ》いて、その暴挙《ぼうきょ》をぜひ慎《つつ》しむようにといくども勧告をしてきたのだった。それにもかかわらず、蜂谷艇長はじめ四人の乗組員の決心は固く、この探険を断念《だんねん》はしなかったのである。だがもしここに乗組員の一人である理学士|天津《あまつ》ミドリ嬢が苦心の結果作りあげた世界に珍らしい電子望遠鏡という名の新型望遠鏡がなかったとしたら、そのときは或いはこの探険を思いとどまったかも知れないけれど……。ミドリ嬢の計算によると、彼女の新望遠鏡は、ウイルソン山天文台のものよりも二十倍も大きく見える筈だった。だから月世界に、乗合《のりあい》バスぐらいの大きさのものがあったとしたら、それは新望遠鏡には丁度一つの微小《びしょう》な点となって見えるだろうという……。
「ミドリさんに早く知らせてやろうと思うが、何処《どこ》へ行ったんだろうな。……」
と、蜂谷学士はロケットの胴中《どうなか》を出て、土間《どま》に下り立った。
「ミドリさーん。……」
学士は大きな声をだして、女理学士の名を呼んだ。だがどこにも返事がなかった。彼の顔は俄《にわ》かに不安に曇《くも》った。
「どこへ行ったんだろう。オイ進君、君も探してくれ。
……ミドリさーん。……」
「えッ、ミドリさんがいないのですか」
進少年もロケットの胴中から飛び出して来た。
「ミドリさーん」
二人は声を合わせてミドリの名を呼びながら、小屋の戸を開いて外へ出てみた。外は真昼のように明るかった。八月十五日の名月が、いま中天《ちゅうてん》に皎々《こうこう》たる光を放って輝いているのだった。……
「おお、ミドリさん。……こんなところにいたんですか。一体どうしたというんです」
学士は、戸外に悄然《しょうぜん》と立っているミドリの姿を見て、愕《おどろ》きの声を放った。
出発直前の殺人
彫刻のように立っていたミドリは、このとき右腕をあげて無言で前方を指した。
「ナ、なッ……」
学士は愕いて、ミドリの指す前の草叢《くさむら》を見た。
「呀《あ》ッ。……羽沢《はざわ》飛行士が倒れている! これはどうした。ああッ……」
傍《かたわら》へかけよってみると、乗組員の一人である飛行士が白いシャツの胸許《むなもと》のところを真赤《まっか》に染めて倒れていた。調べてみると、彼は心臓の真上を一発の弾丸で射ぬかれて死んでいた。一体こんなところで誰に撃ち殺されたのだろう?
「……ああ、おしまいだ。折角《せっかく》のあたし達の探険……」
ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体を崩《くず》した。それは見るも気の毒な気の落としようだった。ミドリの兄は天津百太郎《あまつももたろう》といって、失踪《しっそう》したロケットの操縦士だった。彼女はこんどの探険を企《くわだ》てたのも、恨《うら》みをのんで死んだろうと思われる兄の霊《れい》を喜ばそうためだった。それだのに羽沢飛行士は壮途《そうと》を前にして、突然死んでしまった。ミドリの悲しみは、察するだに哀《あわ》れなことだった。
「……仕方がない。これも神さまのお心かもしれないよ」と艇長はやさしく彼女の肩に手をおいて云った。「残念だが、このたびは中止をしよう」
そのときだった。向うの街道《かいどう》から、ヘッドライトがパッとギラギラする両眼をこっちに向けて、近づいてくる様子。
「ああ、誰かこっちへ来る……」
と、進少年は叫んだ。
近づいて来たのを見ると、それは競争用の背の低い自動車だった。やがて自動車は、小屋の前に止り、中から出てきたのは、色の浅ぐろい飛行士のような男だった。
「ああ、猿田さんだッ……」
猿田とよばれた男はツカツカと一同の前に出てきて、
「ああ皆さん。御出発に際して、お見送りの言葉を云いに来ましたよ」
ミドリはそのとき、スックと立ち上った。
「ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方《あなた》この宇宙艇を操縦して月世界《つきのせかい》へ行って下さらない」
「ああミドリさん、ちょっと……」
と艇長の蜂谷学士がとどめた。しかしミドリはその言葉を遮《さえぎ》ってまた叫んだ。
「ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ」
「ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう」
「まあ待ちたまえ」
と蜂谷学士が云いかけるのを、ミドリは
「……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ」
「……」
蜂谷学士は、なぜか猿田飛行士が探険に加わることを好まぬ様子だったが、ミドリは滅多《めった》に来ないチャンスを惜しむあまり、とうとう羽沢飛行士の代りに猿田飛行士を頼むことにきめてしまった。
艇の出発はいよいよ間近《まぢ》かになった。のこっているのは、飲料水の入った樽《たる》がもうあと十個ばかりだった。一同は力をあわせて、この最後の荷物を搬《はこ》びこんだ。
「さあこれで万端《ばんたん》ととのった。……進君、もう一度宇宙艇のなかを探してくれたまえ。万一密航者などがコッソリ隠れていると困るからネ……」
厳重《げんじゅう》な艇内捜索が始まった。樽のうしろや、器械台の下などを入念に調べたが別に怪しい密航者の影も見あたらなかった。
「さあ、密航者はいませんよ。もう大丈夫です」
進少年は、そう叫んだ。
「では出発だ。扉《ドア》を締めて……」
重い二重扉《にじゅうドア》がピタリと閉《と》じられ、四人の乗組員は、それぞれ部署についた。蜂谷学士は、ロケットの一番頭にちかい司令席につき六つの映写幕を持ったテレビジョン機の中を覗《のぞ》きこんだ。そこにはこの宇宙艇の前方と後方と、それから両脇と上下との六つの方角が同時に見透《みとお》しのできる仕掛けによって、居ながらにして、宇宙艇のまわりの有様がハッキリと分った。
そのすこし後には、進少年がラジオの送受機《そうじゅき》を守って、皮紐《かわひも》のついた座席に身体を結びつけた。その横にはミドリ嬢が同じように頑丈《がんじょう》な椅子に身体を結びつけていたが、これは沢山の計器《メーター》と計算機とをもって、宇宙艇の進行に必要な気象を観測したり、また進路をどこにとるのがいいかなどということについて計算をするためだった。
一ばん後方には、飛び入りの猿田飛行士が複雑な配電盤を守っていた。そこでは艇長の命令によって、刻々《こくこく》方向舵を曲げたり、噴射気《ふんしゃき》の強さを加減してスピードをととのえたり空気タンクや冷却水の出る具合を直したりするという一番重大で面倒な役目をひきうけていたのだった。
「出航用意!」
艇長は伝声管《でんせいかん》を口にあてて叫んだ。
「出航用意よろし」
と猿田飛行士のところから、返事があった。
「進路は小熊座《こぐまざ》の北極星、出航《しゅっこう》始めッ」
ついに蜂谷艇長は、出発命令を下した。猿田が開閉器《かいへいき》をドーンと、入れると、たちまち起るはげしい爆音、小屋は土砂《どしゃ》に吹きまくられて倒壊《とうかい》した。そのとき機体がスーッと浮きあがったかと思うと、真青《まっさお》な光の尾を大地の方にながながとのこして、宇宙艇はたちまち月明《げつめい》の天空《てんくう》高くまい上った。
宇宙旅行
わずか五秒しかたたないのに、新宇宙艇は富士山の高さまで昇った。
スピードはいよいよ殖えて、それから十秒のちには、成層圏《せいそうけん》に達していた。窓外《そうがい》の空は月は見えながらも、だんだん暗さを増していった。
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