そこで新宇宙艇の進路が変った。大空の丁度《ちょうど》ま上に見える琴座《ことざ》の一等星ベガ一名《いちめい》織女星《しょくじょせい》を目がけて、グングン高くのぼり始めた。
 地球から月世界までの距離は、三十八万四千四百キロメートルという長いもの、それをこの新宇宙艇は、僅《わず》か十日間で飛び越そうという計算であった。
 進路がベガに向けられて、早や三日目になった。もうあたりは黒白《あやめ》も分らぬ闇黒《くらやみ》の世界で、ただ美しい星がギラギラと瞬《またた》くのと、はるかにふりかえると、後にして来た地球がいま丁度夜明けと見えて、大きな円屋根《まるやね》のような球体《きゅうたい》の端《はし》が、太陽の光をうけて半月形《みかづきがた》に金色《こんじき》に美しくかがやきだしたところだった。
 蜂谷艇長は、観測台のところに立って、しきりにオリオン星座のあたりを六分儀《ろくぶぎ》で測《はか》っていたが、やがて器械を下に置くと、手すりのところへ近づいて、下にいるミドリの名を呼んだ。
「ねえ、ミドリさん……」
「アラ、どうかなすって?」
 ミドリは星座図の上に三角|定規《じょうぎ》をパタリと置いて、艇長の顔を見上げた。
「どうも可笑《おか》しいんですよ。もう丸三日になるので、十二万キロは来ていなきゃならないのに、たいへん遅れているんです。始め試験をしたときのような全速度が出ないのです。よもや貴方《あなた》の計算に間違いはないでしょうネ」
「いえ、計算は三つの方法ともチャンと合っていますわ。間違いなしよ」
「間違いなし。……するとこれは、何か別に重大なるわけがなければならんですなア」
 そういって蜂谷艇長は腕をこまねいて考えに沈んだ。
「私の運転の下手《へた》くそ加減《かげん》によるというんでしょう、ねえ艇長!」
 猿田飛行士が、底の方からいやみらしい言葉を投げかけた。
「そうは思わないよ。黙っていたまえ君は……。おう、進君、やがて水を配《くば》る時間だ。第四の樽を開けて置いて呉《く》れたまえ」
 進少年は、通信機のそばを離れて、下に降りていった。床《ゆか》にポッカリと明《あ》いた穴に身体を入れて見えなくなったと思うと、それから間もなく、ワッという悲鳴と共に、一同を呼《よ》ぶ声が聞えてきた。
 艇長は残りの二人を手で制して、ピストル片手に単身《たんしん》底穴《そこあな》に降りていったが、軈《やが》て激しい罵《ののし》りの声と共に、見慣れない一人の青年の襟《えり》がみをとって上へ上って来た。
「密航者だ。……この男がいるせいで、この艇が一向計算どおり進行しなかったんだ。なぜ君はわれわれの邪魔をするんだ。君は一体誰だい」
「まあそう怒《おこ》らないで、連れていって下さいよ、僕は新聞記者の佐々砲弾《さっさほうだん》てぇんです。僕一人ぐらい、なんでもないじゃないですか」
 この不慮《ふりょ》の密航者をどうするかについて、艇では大議論が起った。もう地球から十二万キロも離れては、彼を落下傘《パラシュート》で下ろすわけにも行かなかった。そんなことをすれば死んでしまうに決っている。艇長は云った。
「このまま連れてゆくか、それとも引返すかどっちかだ。連れてゆくのなら、食料品が足りないから、今日から皆の食物の分量を四分の一ずつ減《へら》すより外《ほか》ない」
 真先《まっさき》に反対したのは、猿田飛行士だった。
「密航するなんて太い奴だ。構《かま》うことはない。すぐに外へ放り出して下さい。たった一つの楽しみの食物が減るなんて、思っただけでもおれは不賛成だ」
 といって、頬をふくらませた。ミドリは引返すことに反対した。艇長は遂《つい》に云った。気の毒ながら、この向う見ずの記者に下艇《げてい》して貰うより外はないと。すると先刻《さっき》からジッと考えこんでいた進少年が大声で叫《さけ》んだ。
「艇長さん、それは可哀想《かあいそう》だなア。……じゃいいから、僕の食物を、この佐々《さっさ》のおじさんと半分ずつ食べるということにするから、このままにしてあげてよね、いいでしょう」
「おれの食物の分量さえ減らなきゃ、あとはどうでも構わないよ」
 と猿田は云った。
 艇長はようやく佐々記者を艇内に置くことを承認した。――佐々はどうなることかとビクビクしていたが、進少年の温い心づかいのため救われたので、少年の手をグッと握りしめ、心から礼を云った。
「あなたは僕の命の恩人だ。……いまにきっと、この御恩《ごおん》はかえしますよ」といった後で、誰にいうともなく「いや世の中には、豪《えら》そうな顔をしていて、実は鬼よりもひどいことをする人間が居《お》るのでねえ……」
 と、意味ありげな言葉を漏《も》らした。


   月世界上陸


 月世界《つきのせかい》の探険に於《おい》て、一番難所といわれるのは、無引力空間《むいんりょくくうかん》の通過だった。その空間は、丁度《ちょうど》地球の引力と月の引力とが同じ強さのところであって、もしそこでまごまごしていたり、エンジンが止《とま》ったりすると、そこから先、月の方へゆくこともできず、さりとて地球の方へ引かえすことも出来ず宙ぶらりんになってしまって、ただもう餓死《がし》を待つより外しかたがないという恐ろしい空間帯《くうかんたい》だった。
 蜂谷艇長《はちやていちょう》の巧《たく》みな指揮が、幸《さいわ》いにエンジンを誤らせることもなく、無事に危険帯を通過させたのだった。乗組員四名――いやいまは五名である――は、ホッと安堵《あんど》の胸をなで下ろした。
 やがて地球を出発してから十二日目、いよいよ待ちに待った月世界に着陸するときが来た。ここでは月は、まるで大地のように涯《はて》しなく拡《ひろ》がり、そして地球は、ふりかえると遥かの暗黒《あんこく》の空に、橙色《だいだいいろ》に美しく輝いているのであった。
「さアいよいよ来たぞ」と艇長はさすがに包みきれぬ喜色《きしょく》をうかべて云った。「じゃ大胆に『危難《きなん》の海《うみ》』の南に聳《そび》えるコンドルセに着陸しよう。皆、防寒具《ぼうかんぐ》に酸素|吸入器《きゅうにゅうき》を背負うことを忘れないように。……では着陸用意!」
「着陸用意よろし」
 猿田飛行士は叫んだ。彼はすっかり隙間《すきま》のないほど身固《みがた》めし、腰にはピストルの革袋《かわぶくろ》を、肩から斜《なな》めに、大きな鶴嘴《つるはし》を、そしてズックの雑袋《ざつぶくろ》の中には三本の酒壜を忍ばせて、上陸第一歩は自分だといわんばかりの顔つきをしていた。
「……着陸始めッ……」
 艇は速度をおとし、静かに螺旋《らせん》を描《えが》きながら、荒涼《こうりょう》たる月世界《つきのせかい》に向って舞《ま》いおりていった。
「ねえ蜂谷さん。着陸してから、どうなさるおつもり」
 とミドリがいった。
「やはり貴女《あなた》の電子望遠鏡にうつった白点《はくてん》を真先《まっさき》に探険するつもりですよ。途中いろいろと観測しましたが、あれは大きな孔《あな》なんですネ。しかも地球にある階段に似たものが見えるんですよ。ひょっとすると、人間が作ったものかも知れませんネ」
「ああ、もしや六角博士《ろっかくはかせ》や兄が生きていて、その階段を築いたのではないでしょうか」
「さあ……」艇長は、十年|前《ぜん》に探険に出かけた博士たちが今まで月世界に生きているものですかと云おうとして、やっと思いとどまった。「それならいいのですがねえ」
「あたしも御一緒に参りますわ。ああ嬉しい」
 そのとき進少年が、艇の底にある倉庫から上ってきた。
「艇長さん、食料品がすこし心細くなったよ。直ぐ引返すとしても、帰りの路は半分ぐらいに減食《げんしょく》しないじゃ駄目だ。ことに水が足りやしない。なにしろ一つの水槽《すいそう》の中に、記者の佐々おじさんが隠れていたんだものねえ。あはははッ」
 それを聞くと、猿田飛行士は、ギョロリと眼玉を動かした。
 艇はその間にだんだん下降して、とうとう真白な砂地《すなじ》にザザーと砂煙りをあげながら着陸した。
 ここに哀《あわ》れを止《とど》めたのは、密航者の佐々砲弾《さっさほうだん》だった。折角《せっかく》ここまでついて来たものの、艇長は彼が上陸することを許さなかった。砲弾という勇しい名をもった彼も、今更《いまさら》どうする力もなく、黙ってその命令を聞くより仕方がなかった。
 新宇宙艇の二重になった丸い出入口は、久方《ひさかた》ぶりで内側へ開かれた。一行四名はマスクをして艇長を先頭に外へ出ていった。
 丁度その上陸地点は、太陽の光を斜めに受けて、かなり気温は高い方だったのは意外だった。
 砂地に下りたって歩きだすと、身体に羽根が生えたようにフワフワと浮いた。それは地球とちがい、月の世界では引力がたいへん小さいせいだった。
 一行は、「危難の海」といわれる平原に見えた白い斑点をさして歩きだした。月には一滴《いってき》の水もない。だから地球から見ると海のように見えるところも、来てみれば何のことか、それは平原に過《す》ぎないのであった。さて一行のうち、猿田飛行士一人は、他の三人をズンズン抜いて、猛烈なスピードで前進していった。ミドリはさすがに女だけあって、とても猿田の半分のスピードも出ず、従《したが》って三人は一緒に遅れて、猿田との距離はみるみる非常に大きくなっていった。
 三人は慣れないマスクと、歩きにくい砂地とに悩みながら、三十分ほども歩いたが、そのとき、前方からキラキラと煌《かがや》くものがこっちへ近づいて来るのを発見した。
「あッ、誰かこっちへ来る。月の世界の生物じゃないかしら」
 進少年の発した愕《おどろ》きの言葉に、一行ははっとして、荒涼《こうりょう》たる砂漠の上に足を停《とど》めた。


   絶望


「――ああ、何のことだ、あれは月の世界の生物でなくて、地球の生物で、あれは飛行士の猿田君なんですよ」
 と、艇長は双眼鏡を眼から外《はず》していった。
「まあ猿田さんが……。どうしたんでしょう」
 なおも進んでゆくと、果《はた》して前方から、猿田飛行士が大ニコニコ顔で近づいてきた。
「オイどうした。なにか階段のある穴のところまで行ったかネ」
「ああ行って来ましたよ。素晴らしいところです。私は道傍《みちばた》で、こんな黄金《おうごん》の塊《かたまり》を拾《ひろ》った。まだ沢山落ちているが、とても拾いつくせやしません。早く行ってごらんなさい」
 そういいすてると、彼は歩調《ほちょう》もゆるめず、大きなマスクの頭をふりたてて、ドンドン元《もと》来《き》た道に引返《ひきかえ》していった。
「あの男《ひと》、あんなに急いで帰って、どうするつもりなんでしょう。変ですわネ」
 と、ミドリは不安そうに、遠去《とおざ》かりゆく猿田の後姿をふりかえった。
「あの黄金の塊を艇の中に置いて、また引返して来て拾うつもりなんですよ。……いやそう慾ばっても、そんなに積ませやしませんよ。だがあの男は抜目《ぬけめ》なしですネ。はッはッはッ」
 一行は先を急いだ。あと十分ばかりして、彼等ははるばるこの月世界まで尋ねて来た最大の目的物を探しあてることができた。
「あッ、これが白い点に見えたところだ。ごらんなさい。附近の砂地とは違って、大穴が明《あ》いている。ホラ見えるでしょう。幅の広い階段が、ずッと地下まで続いている」
「あら、随分《ずいぶん》たいへんだわ。……ねえ、蜂谷さん。あの階段は黄金でできているのですわ。猿田さんが持っていったのは、その階段の破片《はへん》なんですわ。ホラそこのところに、破片《はへん》が散らばっていますわ。ぶっかいたんだわ、まあひどい方……」
 進少年は、かねて月の世界には黄金が捨てるほどあると聞いたが、こんな風に地球の石塊《せきかい》と同じように、そこら中《じゅう》に無造作《むぞうさ》に抛《ほう》りだしてあるのを見ては、夢に夢みるような心地がした。
「私の喜びは、月世界《つきのせかい》の黄金よりも、このような階段を作る力のある生物が棲《す
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