鬼仏洞事件
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)見取図《みとりず》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一等|賑《にぎや》かな
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見取図《みとりず》
鬼仏洞《きぶつどう》の秘密を探れ!
特務機関から命ぜられた大陸に於《お》けるこの最後の仕事、一つに女流探偵《じょりゅうたんてい》の風間三千子《かざまみちこ》の名誉がかけられていた。
鬼仏洞は、ここから、揚子江を七十キロほど遡《さかのぼ》った、江岸《こうがん》の○○にある奇妙な仏像陳列館《ぶつぞうちんれつかん》であった。
これは某国の権益《けんえき》の中に含められているという話だが、今は土地の顔役である陳程《ちんてい》という男が管理にあたっているそうだ。
わが特務機関は、未だに公然とこの鬼仏洞の中へ足を踏み入れたことがないのであるが、近頃この鬼仏洞を見物する連中が殖《ふ》え、評判が高くなってきたのはいいとして、先頃以来この洞内《どうない》で、不慮《ふりょ》の奇怪な人死《ひとじに》がちょいちょいあったという妙な噂もあるので、さてこそ女流探偵の風間三千子女史が、鬼仏洞の調査に派遣せられることになったのである。
これが最後の御奉公と思い、彼女は勇躍大胆にも単身○○に乗りこんで、ホテル・ローズの客となった。まず差当《さしあた》りの仕事は、鬼仏洞の見取図を出して秘密の部屋割を暗記することだった。彼女はその見取図を、スカートの裏のポケットに忍ばせていた。
それから三日がかりで、彼女はようやく鬼仏洞の部屋割を、宙で憶《おぼ》えてしまった。これならもう、鬼仏洞を見に入っても、抜かるようなことはあるまいという自信がついた。
無理をしたため、頭がぼんやりしてきたので、彼女は、その日の午後、しばらく睡《ねむ》っていた。が、午後三時ごろになって、気分がよくなったので、起きて、急に街へ出てみる気になった。
その日は、土曜日だったせいで、街は、いつにも増して、人出が多かった。彼女は、いつの間にか、一等|賑《にぎや》かな紅玉路《こうぎょくろ》に足を踏み入れていた。
鋪道《ほどう》には、露店《ろてん》の喰べ物店が一杯に出て、しきりに奇妙な売声をはりあげて、客を呼んでいた。
三千子は、ふとした気まぐれから、南京豆《なんきんまめ》を売っている露店の前で足を停《とど》め、
「あんちゃん。おいしいところを、一袋ちょうだいな」
といって、銀貨を一枚、豆の山の上に、ぽんと放った。
「はい、ありがとう」
店番の少年は、すばやく豆の山の中から、銀貨を摘《つま》みあげて、口の中に放りこむと、一袋の南京豆を三千子の手に渡した。
「おいしい?」
「おいしくなかったら、七面鳥を連れて来て、ここにある豆を皆拾わせてもいいですよ」
といってから、急に声を低めて、
「……今日午後四時三十分ごろに、一人やられるそうですよ。三十九号室の出口に並べてある人形を注意するんですよ」
と、謎のような言葉を囁《ささや》いた。
三千子は、それを聞いて、電気に懸《かか》ったように、びっくりした。
もうすこしで、彼女は、あっと声をあげるところだった。それを、ようやくの思いで、咽喉の奥に押しかえし、殊更《ことさら》かるい会釈《えしゃく》で応《こた》えて、その場を足早に立ち去った。しかし、彼女の心臓は、早鉦《はやがね》のように打ちつづけていた。
無我夢中で、二三丁ばかり、走るように歩いて、彼女はやっと電柱の蔭に足を停めた。腕時計を見ると、時計は、ちょうど、午後四時を指していた。
(今の話は、あれはどうしても、鬼仏洞の話にちがいない。あと三十分すると、第三十九号室で、誰か人が死ぬのであろう。なんという気味のわるい知らせだろう。しかし、こんな知らせを受取るなんて、幸運だわ!)
三千子は、昂奮《こうふん》のために、自分の身体が、こまかに慄《ふる》えているのを知った。
(行ってみよう。時間はまだ間に合う。――もし鬼仏洞の話じゃなかったとしても、どうせ元々だ)
三千子の心は、既に決った。彼女は、南京豆売りの少年が、なぜそんなことを彼女に囁いたのかについて考えている余裕もなく、街を横切ると、鬼仏洞のある坂道をのぼり始めたのであった。
三千子が向うへ行ってしまうと、豆の山のかげから、一人の青年が、ひょっくり顔を出して、三千子の去った方角を見て、にやにやと笑った。
長身《ちょうしん》の案内者
見るからに、妖魔《ようま》の棲《す》んでいそうな古い煉瓦建《れんがだて》の鬼仏洞の入口についたのが、四時十五分過ぎであった。彼女は、こんなこともあろうかと、かねてホテルのボーイに手を廻して買っておいた紹介者つきの入場券を、改札口と書いてある蜜蜂《みつばち》の巣箱《すばこ》の出入口のような穴へ差し入れた。
すると、入場券は、ひとりでに、奥へ吸い込まれたが、とたんに何者かが奥から、
「これを胸へ下げてください」
と云ったかと思うと、丸型の赤い番号札が例の穴から、ひょこんと出て来た。
(呀《あ》っ!)
そのとき、三千子の眼は、素早く或るものに注《そそ》がれた。それは、奥から番号札を押し出した変に黄色い手であった。それはまるで、蝋細工《ろうざいく》の手か、そうでなければ、死人《しびと》の手のようであった。
三千子は、とたんに商売気《しょうばいぎ》を出して、その手をたしかめるために、腰をかがめて、穴の中を覗《のぞ》きこんだ。
「呀《あ》っ!」
ぴーんと音がして、番号札が、発止《はっし》と三千子の顔に当るのと、がたんと穴の内側から戸が下りるのと同時であった。三千子は、地上に落ちた番号札を、急いで拾い上げたが、胸が大きく動悸《どうき》をうっていた。彼女は、戸の下りる前に、穴の内側を覗いてしまったのである。
(手首だった。切り放された黄色い手首が、この番号札を前へ押しだしたのだ。――そして“これを胸へ下げてください”と、その手首がものをいった!)
女流探偵風間三千子の背筋に、氷のように冷いものが伝わった。
なるほど、噂にたがわぬ怪奇に充ちた鬼仏洞である。ふしぎな改札者に迎えられただけで、はやこの鬼仏洞が容易ならぬ場所であることが分ったような気がした。
だが、風間三千子は、もう訳もなく怖《お》じてはいなかった。彼女は、女ながらももう覚悟をきめていた。一旦ここまで来た以上、鬼仏洞の秘密を看破《かんぱ》するまでは、どんなことがあっても引揚げまいと思った。
入口の重い鉄扉《てつど》は、人一人が通れるくらいの狭い通路を開けていた。三千子は、胸に番号札を下げると、その間を駆け足ですりぬけた。
ぎーい!
とたんに、彼女のうしろに、金属の軌《きし》る音がした。入口の重い鉄扉は、誰も押した者がないのに、早もう、ぴったりと閉っていた。
ふしぎ、ふしぎ。第二のふしぎ。
彼女は、しばらく、その薄暗い室の真中に、じっと佇《たたず》んでいた。さてこれから、どっちへいっていいのか、さっぱり見当がつかないのであった。その室には電灯一つ点《つ》いていなかった。が、まさか、囚人《しゅうじん》になったわけではあるまい。
一陣の風が、どこからとなく、さっと吹きこんだ。
それと同時に、俄《にわか》に騒々《そうぞう》しい躁音《そうおん》が、耳を打った。躁音は、だんだん大きくなった。それは、まるで滝壺の真下へ出たような気がしたくらいだった。
彼女は、おどろいて、音のする方を、振り返った。するといつの間にか、後に、出入口らしいものが開いていた。その口を通して、奥には、ぼんやりと明りが見えた。
(あ、なるほど、やっぱり第一号室へ通されるのだ!)
三千子は、脳裡《のうり》に、絹地《きぬじ》に画かれたこの鬼仏洞の部屋割の地図を思いうかべた。彼女は、今は躊躇《ちゅうちょ》するところなく、第一号室へとびこんだのであった。
その部屋の飾りつけは、夜明けだか夕暮だか分らないけれど、峨々《がが》たる巌《いわお》を背にして、頭の丸い地蔵菩薩《じぞうぼさつ》らしい像が五六体、同じように合掌《がっしょう》をして、立ち並んでいた。
轟々《ごうごう》たる躁音は、どうやら、この巌の下が深い淵《ふち》であって、そこへ荒浪《あらなみ》が、どーんどーんと打ちよせている音を模したものらしいことが呑みこめた。
第一号室は、たったそれだけであった。
何のことだと、つづいて第二号室に足を踏み入れた三千子は、思いがけなく眩《まぶ》しい光の下に放りだされて、目がくらくらとした。
瞳をよく定めて、その部屋を見廻すと、なるほど、これは鬼仏洞へ来たんだなという気が始めてした。横へ長い三十畳ばかりのこの部屋には、中央に貴人《きじん》の寝台《しんだい》があり、蒼《あお》い顔をした貴人が今や息を引取ろうとしていると、その周囲にきらびやかな僧衣に身を固めた青鬼赤鬼およそ十四五匹が、臨終《りんじゅう》の貴人に対して合掌《がっしょう》しているという群像だった。像はすべて、等身大の彫刻で、目もさめるような絵具がふんだんに使ってあって、まるで生きているように見えた。
赤鬼青鬼の合掌は、一体何を意味するのであろうか。三千子は、気をのまれた恰好で、唖然《あぜん》としてその前に立っていた。
するとそのとき、どやどやと足音がして、一団の人が入ってきた。見ると、それは、逞《たくま》しい身体つきの、中年の中国人が六七名、いずれも袖の長い服に身を包んでいた。彼等は、三千子よりも遅れて、この鬼仏洞を参観に入ってきたものらしい。
「さあ、いよいよこれが鬼導堂《きどうどう》です。赤鬼青鬼が引導を渡して、貴人がこれから極楽往生を遂げるというところ。人形のそばへよってごらんなさい。よく見ていると、息が聞えるようだ。はははは」
案内役らしい背のひょろ高い男が、一行を振りかえって大笑《たいしょう》した。
三千子は、この第二号室の人形の意味が分って、なるほどと肯《うなず》いた。
恐《おそろ》しき椿事《ちんじ》
三千子は、それとなく、この一行の後について、各室を巡《めぐ》っていった。案内役の中国人は、一室毎に高まる怪奇な鬼仏の群像にてきぱきと説明をつけるのであった。
三千子は、その説明を聞きたさのあまり、ついて歩いているのであったが、鬼仏の群像には、二通りあって、一つは鬼が神妙らしい顔つきをして僧侶になっているもの、それからもう一つは、顔は阿弥陀《あみだ》さまを始め、気高い仏でありながら、剣や弓矢などの武器を手にして、ふりまわしている殺伐《さつばつ》なものと、だいたいこの二つに分けられるのであった。
「仏も、遂には人間の悪を許しかねて、こうして剣をふるわれるのじゃ。はははは」
かの案内人は、説明のあとで、からからと笑う。
あたり憚《はば》からぬその太々しい説明をだんだんと聞いていると、この案内人は、この洞に飾ってある鬼仏像の一つが、台の上から下りて来て説明役を勤めているのじゃないかと、妙な錯覚を起しそうで、三千子は困った。
そのうちに、例の時刻が近づいた。南京豆売りの小僧が教えてくれた午後四時半が近づいたのである。三千子は、この一行に分れて、一刻も早く、例の第三十九号室へいってみなければ間に合わないかもしれないと思った。そこで彼女は、一行の前をすりぬけ、かねて勉強しておいた洞内の案内図を脳裏《のうり》に思い浮べ、最短通路を通って、第三十九号室へとびこんだのであった。
第三十九号室! そこは、どんな鬼仏像が飾りつけてある部屋だったろうか。
そこは、案外平凡な部屋に見えた。
室は、まるで鰻《うなぎ》の寝床《ねどこ》のように、いやに細長かった。庭には、桃《もも》の木が植えられ、桃の実が、枝もたわわになっている。本堂から続いているらしい美しい朱《しゅ》と緑との欄干《らんかん》をもった廻廊《かいろう》が、左手から中央へ向かってずーっと伸びて来ている。中央には階段があって、終っている。その階段の下に、顔が水牛《すいぎゅう》になってい
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