る身体の大きな僧形《そうぎょう》の像が、片足をあげ、長い青竜刀《せいりゅうとう》を今横に払ったばかりだという恰好をして、正面を切っているのであった。人形はそれ一つであった。この人形の前を通りぬけると、すぐその向うに次の部屋へいく入口が見えていた。
(この室で、やがて誰か死ぬって、本当かしら)
 と、三千子は、桃の木の傍《そば》で、首をかしげた。一向そんな血醒《ちなまぐさ》い光景でもなく、青竜刀を横に払って大見得《おおみえ》を切っている水牛僧の部が、むしろ間がぬけて滑稽《こっけい》に見えるくらいであった。いくぶん不安な気を起させるものといえば、この部屋の照明が、相当明るいには相違ないが、淡《あわ》い赤色《せきしょく》灯で照明されていることであった。
 そのときであった。隣室に人声が聞え、つづいて足音が近づいて来た。
(いよいよ誰か来る)
 時計を見ると、もう二三分で、例の午後四時三十分になる。すると、今入ってくる連中の中に死ぬ人が交《まじ》っているのであろう。三千子は、その人々に見られたくないと思ったので、人形と反対の側の入口の蔭に、身体をぴったりつけた。
 すると、間もなく見物人は入ってきた。見れば、それは先程の五六人連れの中国人たちであったではないか。
(やっぱり、そうだった)
 三千子は、心の中に肯《うなず》いた。部屋部屋を、順序正しく廻ってくれば、この一行は、まだもっと遅れ、二三十分も後になって、この部屋へ巡《めぐ》ってくる筈だった。ところが、例の不吉《ふきつ》な定刻《ていこく》にわざわざ合わせるようにして、この第三十九号室へ入ってきたというところから考えると、いよいよこの中の誰かが、死の国へ送りこまれるらしい。これは自然な人死《ひとじに》ではなく、たしかにこれは企《たく》まれたる殺人事件が始まるのにちがいないと、風間三千子は思ったのであった。
 一行が、この部屋に入り、人形の方に気をとられている間に、三千子は、入口をするりと抜け、その一つ手前の隣室、つまり第三十八号室へ姿を隠したのだった。そして入口の蔭から、第三十九号室の有様を、瞬《まばた》きもせず、注視《ちゅうし》していた。
「これは、水牛仏が、桃盗人《ももぬすびと》を叩き斬ったところですよ。はははは」
 案内役は、とってつけたように笑う。
「水牛仏はこの人形だろうが、桃盗人が見えないじゃないか」
 と、一行の中の、布袋《ほてい》のように腹をつきだした中国人がいった。
「や、こいつは一本参った。この鬼仏洞のいいつたえによると、たしかにこの水牛仏が、青竜刀《せいりゅうとう》をふるって、桃盗人の細首をちょん斬ったことになっとるのじゃが、どういうわけか、始めから桃盗人《ももぬすびと》の人形が見当らんのじゃ」
「それは、どういうわけじゃ」
「さあ、どういうわけかしらんが、無いものは無いのじゃ」
「こういうわけとちがうか。この鬼仏洞の中には、何千体か何万体かしらんが、ずいぶん人形の数が多いが、桃盗人の人形は、どこかその中に紛《まぎ》れこんでいるのと違うか」
「あー、なるほど。なかなかうまいことをいい居ったわい。はははは。しかしなあ、紛れ込んどるということは、絶対にない。もう何十年も何百年も、毎日毎日人形の顔はしらべているのじゃからなあ。それに、その桃盗人の人形の人相書というのが、ちゃんとあるのじゃ」
「本当かね」
「本当じゃとも、その桃盗人の人相は、まくわ瓜《うり》に目鼻をつけたる如くにして、その唇は厚く、その眉毛は薄く、額《ひたい》の中央に黒子《ほくろ》あり――と、こう書いてあるわ。まるで、そこにいる顔子狗《がんしく》の顔そっくりの人相じゃ。わはははは」
「あははは、こいつはいい。おい、顔子狗、黙っていないで何とかいえよ」
「……」
 顔子狗と呼ばれた男は、無言で、ただ唇と拳をぶるぶるとふるわせていた。そのときである。どうしたわけか、室内が急に明るく輝いた。急に真昼のように、白光が明るさを増したのであった。人々の面色《めんしょく》が、俄かに土色に変ったようであった。これは天井に取付けてあった水銀灯が点灯したためであったが、多くの人は、急にはそれに気がつかなかった。
「やよ、顔子狗。なんとか吐《ぬ》かせ」
「それで、わしを嚇《おどか》したつもりか、盗人根性《ぬすびとこんじょう》をもっているのは、一体どっちのことか。おれはもう、貴様との交際は、真平だ」
 そういって顔子狗は、さっさと、向うへ歩みだした。
「おい顔子狗よ」と例の案内役が、後から呼びかけた。
「お前とは、もう会えないだろう。気をつけて行《ゆ》け。はははは」
「勝手に、笑っていろ」
 顔子狗は、捨台辞《すてぜりふ》をのこして、一行の方を振りかえりもせず、すたすたと、水牛仏の前をすり抜けようとした――その瞬間のことであった。
「呀《あ》っ!」
 顔《がん》の身体は、まるで目に見えない板塀《いたべい》に突き当ったように、急に後へ突き戻された。とたんに彼は両手をあげて、自分の頸をおさえた。が、そのとき、彼の肩の上には、もはや首がなかった。首は、鈍い音をたてて、彼の足許《あしもと》に転《ころが》った。次いで、首のない彼の身体は、俵《たわら》を投げつけたように、どうとその場に地響をうって倒れた。
 一行は、群像のようになって、それより四五メートル手前で、顔子狗のふしぎなる最期《さいご》に気を奪われていた。
 遥か後方にはいたが、風間三千子は、煌々《こうこう》たる水銀灯の下で演ぜられた、この椿事《ちんじ》を始めから終りまで、ずっと見ていた。いや、見ていただけではない。
(あ、あの人が危い!)
 と思った瞬間、彼女は、ハンドバックの中に手を入れるが早いか、小型のシネ撮影器を取り出し、顔子狗の方へ向け、フィルムを廻すための釦《ボタン》を押した。煌々《こうこう》たる水銀灯の下、顔子狗の最期の模様は、こうして極《きわ》どいところで、彼女の器械の中に収められたのであった。
 自分でも、後でびっくりしたほどの早業《はやわざ》であった。職務上の責任感が、咄嗟《とっさ》の場合に、この大手柄をさせたものであろう。
 だが、彼女は、さすがに女であった。顔子狗の身体が、地上に転ってしまう、とたんに、気が遠くなりかけた。
 もしもそのとき、後から声をかけてくれる者がいなかったら、女流探偵は、その場に卒倒《そっとう》してしまったかもしれないのだった。
 だが、ふしぎな早口の声が、彼女の背後から、呼びかけた。
「おっ、お嬢さん、大手柄だ。しかし、早くこの場を逃げなければ危険だ」
「えっ」
 三千子は、胆《きも》を潰《つぶ》して、はっと後をふりかえった。しかし、そこには誰も立っていなかった。いや、厳密にいえば、青鬼赤鬼が、衣《ころも》をからげて、田を耕している群像が横向きになって立っていたばかりであった。
 だが、どこからかその声は又言葉を続けるのであった。
「お嬢さん。おそくも、あと五分の間に、裏口へ出なければだめだ。知っているでしょう、近道を選んで、大急ぎで、裏口へ出るのだ。扉《ドア》が開かなかったら、覗《のぞ》き窓の下を、三つ叩くのだ。さあ急いで! 彼奴《きゃつ》らに気がつかれてはいけない!」
 その早口の中国語は、どこやら聞いたことのある声だった。だが彼女は、それを思い出している遑《いとま》がなかった。
「ありがとう」一言礼をいうと、彼女は、一旦後へ引きかえし、宙で憶えている近道をとおって、一目散《いちもくさん》に裏口へ走った。そして扉をどんどんどんと叩いて、ようやく鬼仏洞の外へ飛び出すことが出来た。
 空は、夕焼雲に、うつくしく彩《いろど》られていた。彼女は、鬼仏洞に、百年間も閉じこめられていたような気がした。


   帆村探偵登場


 特務機関長が、最大級の言葉でもって、風間三千子の功績を褒《ほ》めてくれたのは、もちろん当然のことであった。
「ああ、これで新政府は、正々堂々たる抗議を○○権益財団に向けて発することができる。いよいよ敵性第三国の○○退却の日が近づいたぞ」
 そういって、特務機関長は、はればれと笑顔を作った。
「抗議をなさいますの。鬼仏洞は、もちろん閉鎖されるのでございましょうね」
「やがて閉鎖されるだろうねえ。しかし、今のところ、抗議をうちこむため、鬼仏洞は大切なる証拠材料なんだ。現場《げんじょう》へいった上で、あなたが撮影した顔子狗《がんしく》の最期の映画をうつして見せてやれば、何が何でも、相手は恐れ入るだろう」
 特務機関長は、もうこれで、すっかり前途を楽観した様子である。
 その翌日、新政府は、○○権益財団に向けて、厳重なる抗議文を発した。
“わが政府は、○○の治安を確立するため、同地に、警察力を常置せんとするものである。之《これ》につき、わが警察力は実力をもって、第一に、鬼仏洞を閉鎖し、第二に、鬼仏洞内にて殺害されたるわが忠良なる市民顔子狗の死体を収容し、第三に、右の顔《がん》殺害犯人の引渡しを要求するものである”
 といったような趣旨の抗議文であった。
 ところが、相手方は、これに対し、まるで木で鼻をくくったような返事をよこした。
“○○の治安は、充分に確保されあり、鬼仏洞内に殺人事件ありたることなし”
 これではいけないというので、新政府は、更に強硬なる第二の抗議書を送り、且つその抗議書に添えて、風間三千子が撮影した顔子狗の最期《さいご》を示すフィルムの一齣《ひとこま》を引伸し写真にして添付《てんぷ》した。
 これなら、相手方は、ぎゃふんというだろうと思っていたのに、帰って来た返事を読むと、
“なるほど、洞内に於て、何某《なにぼう》が死亡しているようであるが、その写真で明瞭であるとおり、何某から五六メートルも離れた位置より、彼等の内の何人たりとも何某の首を切断することは不可能事である。況《いわ》んや、彼等の手に、一本の剣も握られていないことは、この写真の上に、明瞭に証明されている。理由なき抗議は、迷惑千万である”
 とて、真向《まっこう》から否定して来たのであった。
 なるほど、そういえば、相手方のいうことも、一理があった。
 だが、一旦抗議を発した以上、このまま引込んでしまうことは許されない。そこでまた、相手方の攻撃点に対して、猛烈な反駁《はんばく》を試《こころ》みた。
 そのような押し問答が二三回続いたあとで、ついに双方《そうほう》の間に、一つの解決案がまとまった。それはどんな案かというのに、
“では、鬼仏洞内の現場に於《おい》て、双方立合いで、検証《けんしょう》をしようじゃないか”
 ということになって、遂《つい》に決められたその日、双方の委員が、鬼仏洞内で顔を合わすこととなった。
 新政府側からは、八名の委員が出向くことになったが、うち三名は、特務機関員であって、風間三千子も、その一人であった。
 その朝、新政府側の委員五名が、特務機関へ挨拶《あいさつ》かたがた寄ったが、三千子は、その委員の一人を見ると、抱えていた花瓶《かびん》を、あわや腕の間からするりと落しそうになったくらいであった。
「まあ、あなたは帆村《ほむら》さんじゃありませんか」
 帆村というのは、東京丸の内に事務所を持っている、有名な私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》のことであった。彼は、理学博士という学位を持っている風変りな学者探偵であって、これまでに風間三千子は、事件のことで、いくど彼の世話になったかしれなかった。殊《こと》に、仕事中、彼女が危《あやう》く生命《せいめい》を落しそうなことが二度もあったが、その両度とも、風の如くに帆村探偵が姿を現わして、危難から救ってくれたことがある。
 そういう先輩であり、命の恩人でもある帆村が、所もあろうに、大陸のこんな所に突然姿を現わしたものであるから、三千子が花瓶を取り落としそうになったのも、無理ではない。
 帆村は、にこにこ笑いながら、彼女の傍へよってきた。
「やあ、風間さん、大手柄をたてた女流探偵の評判は、実に大したものですよ。それが私だったら、今夜は晩飯を奢《おご》ってしまうん
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