ですがねえ」
「あら、あんなことを……」
「いや、遠慮なさることはいらない。何しろあの場合の、咄嗟の撮影の早業《はやわざ》なんてものは、人間業じゃなくて、まず神業《かみわざ》ですね」
「おからかいになってはいや。で、帆村さんは、政府側の委員のお一人でしょうが、どんなお役柄ですの」
「僕ですか。僕はその、戦争でいえば、まあ斥候隊《せっこうたい》というところですなあ」
「斥候隊は、向こうへいって、どんなことをなさいますの」
「そうですねえ。要するに、斥候隊で、敵の作戦を見破ったり、場合によれば、一命《いちめい》を投げだして、敵中へ斬り込みもするですよ」
「まあ、――」
 といったが、三千子は、帆村の身の上に、不吉な影がさしているように感じて、胸が苦しくなった。
 鬼気《きき》せまる鬼仏洞内での双方の会見は、お昼前になって、ようやく始まった。尤《もっと》も明り窓一つない洞内では昼と夜との区別はないわけである。
 ○○権益財団側からは、やはり同数の八名の委員が出席したが、その外に、前には姿を見せなかった鬼仏洞の番人隊と称する、獰猛《どうもう》な顔付の中国人が、太い棒をもって、あっちにもこっちにもうろうろしていた。
 いよいよ交渉が始まった。
 相手方から、背のひょろ高い一人の委員が、一番前にのりだしてきて、
「わしは、この鬼仏洞の長老で、陳程《ちんてい》という者だ。お前さん方は、この鬼仏洞の治安が乱れているとか、中で善良な市民が謀殺《ぼうさつ》されたとか、有りもしないことを、まことしやかにいいだして、わが鬼仏洞にけちをつけるとは、怪《け》しからん話だ」
 と、始めから、喧嘩腰であった。
 三千子は、後から、その長老陳程と名乗る男の顔を一目見たが、胸がどきどきしてきた。この長老こそ、先日顔子狗たちを連れて各室を廻っていた莫迦笑いの癖《くせ》のある案内役であることを確認したからである。
 彼女は、そのことを帆村にそっと告げようとしたが、その前に帆村は、前へとび出していた。
「やあ、陳程委員さん、私は帆村委員ですがね、こんなところで押し問答をしても仕方がない。現場《げんば》へいって、常時の模様をよく説明してください」
「現場かね。現場は、ちゃんと用意ができている。すぐ案内をするが、あなた方は、洞内《どうない》の規定を守ってもらわなければならん。第一、わしの許可なくして、物に手を触れてはならない。第二、煙草をすってはならない。第三に……」
「そんなことは常識だ。さあ、現場へ案内してください」
 一同は、やがて問題の第三十九号室に、足を踏み入れた。
 室内の様子は、前と同じで室内には例の赤色灯《せきしょくとう》が点《つ》いていた。ただ、顔子狗の斃《たお》れていたところには、白墨《はくぼく》で人体《じんたい》と首の形が描いてあることが、特筆すべき変り方であった。三千子は、あの日のことを、まざまざと思い出した。あやしい振動が、足の裏から、じんじんじんと伝《つたわ》ってくるような気がした。
「……顔《がん》の自殺死体のあったのは、あそこだ。われわれは四五メートル離れたこのへんに固《かたま》っていた。これは、お前方の提供した写真にも、ちゃんとそのように出て居る」
 陳程長老は、手にしていた白墨で、欄干《らんかん》の下に、大きな円《まる》を描いて、
「こんなに遠くへ離れていて、顔の首を斬ることは、手品師にも、出来ないことじゃ。それとも出来るというかね。はははは」長老は、勝ち誇ったように笑った。
 帆村探偵は、別に周章《あわ》てた様子も見せなかった。彼は、長老の方に尻を向けて、顔の倒れていた場所へ近よった。
「ほう、ちょうどこの水牛仏の前で、息を引取ったんだな。水牛仏に引導を渡されたというわけか。すると顔は、丑年生《うしどしうま》れか。ふふふん」
 帆村は、いつもの癖の軽口を始めた。そして手にしていた煙草を口に啣《くわ》えて、うまそうに吸った。
「おい、こら。煙草は許されないというのに。さっき、あれほど注意しておいたじゃないか」
 長老陳程が、顔を赤くして、とんできた。
「ほい、そうだったねえ」
 帆村は、煙草を捨てた。火のついた煙草は、しばらく水牛仏の傍《かたわら》で、紫煙をゆらゆらと高く、立ちのぼらせていた。
 そのとき帆村は、なぜか、その煙の行手に、真剣な視線を送っていた。


   幻影《げんえい》の静止仏《せいしぶつ》


(水牛仏がふりまわしているあの青竜刀は、本当に斬れそうだな。しかし、まさか顔子狗は、わざわざあそこへ首を持っていったわけではないのだ。こっちで斃《たお》れていたんだからなあ)
 帆村は、興味ありげな顔付で、じっと水牛仏が、右へ払った青竜刀を瞶《みつ》めた。帆村は、その青竜刀が、高さからいうと、ちょうど、人間の首の高さにあり、その刃は水平に寝ているのが気になった。
(なるほど。すると、この人形が、このまま一まわりぐるっと廻転したとすると、あの青竜刀はここに立っている人間の首をさっと斬り落せるわけだ。してみると……)
 帆村は、長老の傍へいって、
「長老、あの水牛仏は動きだしませんかね。いや、ぐるぐると廻転しませんかね」
 長老は、それを聞くと、かっと眼を剥《む》いたが、次の瞬間には、口辺《こうへん》に笑《え》みを浮べ、
「とんでもない。人形が動いたり廻ったりしてはたいへんだ。傍へいって、よく調べたがいいじゃろう」
「調べてもいいですか。あなたは、困りゃしませんか」
「あの人形が動いているのを見た人があったら、わしは水牛の背に積めるだけの銀貨を呈上《ていじょう》する」
「本当ですな、それは……」
「くどい男じゃ、早く調べてみたがよかろう」
 帆村は頷《うなず》いて、後をふりかえると、水牛仏に、じっと目を注《そそ》いだ。
 そのとき、室内が、俄《にわか》に明るくなった。天井の水銀灯が、煌々《こうこう》と点火したのであった。
「誰だ、照明をかえたのは……」
「照明は、自然にかわるような仕掛になっているのじゃ」
 長老が返事をした。しかし帆村は、長老がひそかに廻廊の柱に手をかけて、ちょっと押したのを見落しはしなかった。
(へんなことをしたぞ。とたんに照明がかわったところを見ると、あの柱に、照明をきりかえるスイッチがついているのかもしれない)
 煌々たる青白《あおじろ》い光線が、室内を真昼のように照らしつける。水牛仏の顔が、一段と奇怪さを増した。
 帆村探偵は、つかつかと水牛仏の方へ近づこうとしたが、そのとき、何に愕《おどろ》いたか、
「呀《あ》っ」
 と、低く叫んだ。
「おい、その棒を貸せ」
 帆村は、後を振返って、傍に立っていた番人の手から、棒を受取った。
「さあ、皆、僕に注意していてください」
 そういったかと思うと、帆村は、その場に跼《かが》んだ。そして跼んだまま、そろそろと水牛仏の方へ歩きだした。
「この棒に注意!」
 帆村は、跼んだまま棒を高く差上げた。そして、しずかに水牛仏の前に近づいていった。一同は、声をのんだ。
 風間三千子だけは、帆村が何を見せようとしているかを感づいた。
 ぴしり。
 高い金属的な音がした。と思った刹那《せつな》、帆村の差上げていた棒は、真二つに折れた。なぜ棒が折れたのか、一同にはわけが分らなかった。何にもしないのに、折れるというのはおかしいのだ。しかし棒はたしかに、真二つに折れた。
 帆村は跼《かが》んだまま、後に振り返った。
「見えましたね。この太い棒が、鋭い刃物で斬られると同じように、切断されたのです。棒の切口の高さを目測《もくそく》してください。もしも僕が、こうして跼まないで、直立したまま真直こっちへ歩いて来たとしたら、この棒の代りに、僕の細首《ほそくび》が、見事に切断されてしまった筈です。どうです、お分りですかな」
 委員たちは、首を左右に振った。帆村の首が切断されたらということは分るが、なぜ、そうなるのか分らなかった。
「棒を切ったのは、鋭い刃物です。その刃物は、皆さんの目には見えないと思うでしょう。ところが、ちゃんと見えているのですよ。この水牛仏が手にしている大きな青竜刀《せいりゅうとう》――これが、今この棒を叩き斬ったのです」
「おい君。そんな出鱈目《でたらめ》をいっても、誰も信用しないよ」
 長老陳程が、憎《にく》まれ口《ぐち》をきいた。
「出鱈目だというのか。じゃ、君は、立ったまま、ここまで来られるか」
「行けないで、どうするものか」
「えっ、ほんとうか。危い、よせ!」
 帆村が叫んだときは、もう遅かった。
 長老は、つかつかと帆村の方へ駈けだした。
「ああッ」
 次の瞬間、長老陳程の首は、胴を放れていた。そして鈍い音をたてて、床の上に転った。
「あ、危い。誰も近よってはいけない。われわれの目には見えないが、この水牛仏は、青竜刀を手にもったまま、独楽《こま》のように廻転しているのだ。生命が惜しければ、誰も近よってはいけない」
 帆村は、そういうと、跼んで、一同のところへ引返してきた。
 一同は、急に不安に襲われ、帆村より先に、前室へ逃げだそうとしたが、そこを動けば、また自分の首が飛ぶのじゃないかという恐れから、どうしていいか分らず、結局その場にへたへたと坐りこんでしまった。


   ふしぎな残像《ざんぞう》


「風間さん。あれは、人間の眼が、いかに残像《ざんぞう》にごま化されているかという証明になるのですよ」
 事件のあとで、帆村は風間三千子の質問に応《こた》えて、重い口を開いた。
「残像にごま化されているといいますと……」
「つまり、こうですよ。今、目の前に、回転椅子を持ってきます。僕がこれを、一チ、二イ、一チ、二イと、ぐるぐる廻します。そこであなたは、目を閉じていて、僕が、一とか二とかいったときだけ、目をぱっと開いて、またすぐ閉じるのです。つまり、一チ二イ一チ二イの調子にあわせて、目をぱちぱちやるのです。すると、この椅子が、どんな風に見えますか。ちょっとやってみましょう」
 帆村は、廻転椅子を三千子の前において、それに手をかけた。
「さあ始めますよ。調子をうまく合わせることを忘れないで……。さあ、一チ、二イ、一チ、二イ、……」
 三千子は、いわれたとおり、調子をあわせて、目をぱちぱちと開閉した。
「三千子さん、椅子は、どんな具合に見えましたか」
「さあ――」
「椅子は、じっと停っていたように見えませんでしたか」
「あ、そうです。椅子は、いつも正面をじっと向いていました。ふしぎだわ」
「そうです。それで実験は成功したのです。つまり、僕は椅子を廻転させましたが、あなたには、椅子がじっと停っているように見えたのです。これは、なぜでしょうか。そのわけは、あなたは、僕の号令に調子を合わせたため、椅子がちょうど正面を向いたときだけ、ぱっと目をあけて椅子を見たことになるのです。だから、椅子は、じっとしていたように感ずるのです」
「まあ、ふしぎね」
「そこで、あの恐しい水牛仏のことですが、あれも青竜刀をもって、ぐるぐる廻転していたのです。とても、目にもとまらない速さで廻っていたのです。しかしちょっと見ると、じっと静止しているように見えるのです」
「そう見えましたわ。でも、あたしたちは、誰も、目をぱちぱち開閉したわけではありませんわ」
「もちろん、そうです。しかし目をぱちぱち開閉するのと同じことが行われていたのです」
「同じことが行われていたというと……」
「水銀灯がつきましたね。あの水銀灯が、非常な速さで、点《つ》いたり消えたりしていたのです。しかも、水牛仏の廻転と、ちょうど調子が合っていたのです。つまり、水牛仏が正面を向いたときだけ、水銀灯は点いて、あの部屋を照らしたのです。だから、水牛仏は、廻転しているとは見えないで、いつも正面をじっと向いていたように見えたのです。お分りになりますか」
「ええ。それは、そうなりそうですけれど、しかしあたしは、あの水銀灯が、別に点滅《てんめつ》しているように感じませんでしたわ」
「それは、人間の眼が残像にごま化されるからです。あなたは、
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