空中漂流一週間
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)田毎《たごと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六条|壮介《そうすけ》
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   「火の玉」少尉


「うーん、またやって来たか」
 と、田毎《たごと》大尉は、啣《くわ》えていた紙巻煙草をぽんと灰皿の中になげこむと、当惑《とうわく》顔で名刺の表をみつめた。前には当番兵が、渋面《じゅうめん》をつくって、起立している。
 ここは帝都に近い××防衛飛行隊本部の将校集会所だった。
「ほう、大尉どの。誰がやって来たのでありますか」
 一週間ほど前に、この飛行隊へ着任したばかりの戸川中尉が、電話帳を繰る手を休め、上官の方に声をかけた。
「うむ、例の『火の玉』少尉が、またやって来たのだ」
「えっ、『火の玉』少尉?」
 といって、戸川中尉は眉を高くあげ、
「ああ六条のことですな。あの六条のやつは、こっちにいましたか」
 戸川中尉は、少年のように眼をかがやかせ、入口の方をふりかえった。しかしそこには、誰の影も見えなかった。
 そもそもこの「火の玉」少尉とよばれる六条|壮介《そうすけ》と戸川中尉とは、同期生だったのだ。そして嘗《かつ》ては、ソ満国境を前方に睨《にら》みながら、前進飛行基地のバラックに、頭と頭とを並べて起伏《おきふ》した仲だった。
 この二人は、無二の仲よし戦友だったけれど、二人の性格は全くあべこべだった。戸川中尉が飛行将校にもってこいの細心で沈着な武人であるのに対し、六条の方はその綽名《あだな》からでも容易に察せられるごとく、満身これ戦闘力といったような感じのする頗《すこぶ》る豪快な将校だった。それで二人は、よく仲のよい悪口《あっこう》を叩きあったものだ。
「なんだ、貴様は。貴様みたいに、数値ばかり気にやんでいると、数値以上の勝利をあげることなんかできやせんぞ」
 と六条壮介がからかえば、戸川は戸川で、
「莫迦《ばか》をいうな。貴様みたいに、戦闘をはじめる途端に数値のことを忘れてしまうようじゃ、どうせ碌《ろく》でもない敵兵に横腹《よこっぱら》を竹槍《たけやり》でぶすりとやられるあたりが落ちさ」
 と、やりかえすのであった。しかしその実、この二人の将校は、互いに相手の長所を尊敬しあっていたのだ。
 真逆《まさか》この戸川の言葉が讖《しん》をなしたわけでもなかろうが、六条|壮介《しょうすけ》のうえにとつぜん不幸な事件が降って来て、彼は第一線を退かなければならないこととなった。
 その不幸な事件というのは、或る日彼が、ソ連空軍の爆撃の跡を視察するため、崩れかかった家屋の前に立っていたとき、そこへ急カーヴを切り輜重《しちょう》隊のトラックが驀進してきた。呀《あ》っといって彼が身をさけた途端に、トラックの運転をしていた兵隊が未熟のためか周章《あわ》ててハンドルを切り間違え、あべこべにトラックは半壊家屋の支柱に衝突し、轟然《ごうぜん》たる音響とともに、とうとうその半壊家屋を潰してしまった。そこで屋内へ避けた六条少尉は、不運というか細心の注意を缺いていたというか、その下敷となった。さっそく全員総がかりで、少尉の身体を掘りだしたが、なかなかの重傷で生命のあったのがふしぎなくらいだった。結局そのとき以来、「火の玉」少尉は右腕の自由を失ってしまい、野戦病院に退いて、ついに右腕を上膊《じょうはく》から切断してしまったのである。
 片腕なくなったのでは、「火の玉」少尉は再び飛行機を操縦することができない。そこで第一線から後送ということになったが、「火の玉」少尉は誰がなんといってもきかない。そして頑張《がんば》りに頑張ったが、いくら頑張っても切断された片腕はいつまでたっても元のように生えないことが分っていたから、無理やりに内地へ連れかえったのである。
「あいつの云うことは、分っているのだ。ソ連軍の重《じゅう》トーチカ集団を破るのは、俺より外にやり手がないんだから、すぐ第一線に出すよう骨を折ってくれというんだ。もうここへは三四十回も面会にきたもんだが、いくらあいつに泣きつかれても、このことばかりはどうにもならないのでねえ」
 と、田毎大尉は困りきった顔で、首を左右にふった。
「右腕がなくてもやれるというのですか」
 戸川中尉は、この事件の前から六条少尉に分れて司令部へ出張していたので、以来彼は会わずじまいだった。
「そうだ。俺にはまだ左腕もあれば両脚もあるし、硬い歯の生えている口もあれば、太い頸《くび》もあるというんだ。その意気は壮《そう》とするが、こればかりはねえ」
 そういっているとき、受付の方角から、大きな蛮声《ばんせい》がこっちへ響いてきた。田毎大尉と戸川中尉とは、思わず顔を見合せた。
「しかたがない。おい当番兵。六条少尉をここへ案内して
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