したいらしいね。はっはっはっ」
 といって、愉快そうに笑った。


   上昇|延刻《えんこく》


 その「火の玉」少尉は、その夜の九時、帝都北東地区の○○陣地において、繋留《けいりゅう》気球に乗りこんだ。そのころ意地わるく南よりの風がかなりはげしく吹きだして、地上に腹匍《はらば》っているような恰好の気球はもくもくと揺れていた。
 はじめは、この気球の下のゴンドラに、六名の者が乗りこむことになっていたが、いよいよという時になって、ただひとり「火の玉」少尉だけが乗ることとなった。
「一体どうしたのか。まさか怖《お》じ気《け》がついたのでもあるまいに」
 と、彼は笑った。
「いや六条さん。班長さんはじめ幹部の連中が、いま手が放せなくなったのですよ。貴方《あなた》もついでに、見合せなすったらどうですかね」
 警防団の庶務係の老人がいった。
「私は予定どおり乗りますよ。風が吹いていようが、敵機は来ようと思えば来るんだからね」
「いえ、風――風がはげしいからどうのこうのというのではなくて、なんでもこの○○陣地の裏手の垣《かき》のところを、怪しい人物が二三人うろついていたという話ですよ。それで班長さんはじめ総がかりでいま見廻り中なんです。気味がわるいじゃありませんか」
 老人は首をぶるぶる慄《ふる》わせていった。
「怪しい人物、ははあ本当かな。臆病者には、蚯蚓《みみず》が蛇《へび》に見える」
「六条さん、そんなことをいっているのを幹部に聞かれると、うるそうがすぜ」
「なにがうるさいものか。この事変下に怪しい奴の一人や二人うろついているのは当り前だよ。なにも班長までが騒ぎまわらなくともいいじゃないか。そんなことは気球に乗らない連中に頼んでおいて、自分たちは予定どおりのるのがいい。敵軍は、こっちにそんな騒ぎがあろうとなかろうと、お構いなしに空襲を仕かけてくるだろうからね」
「そりゃそうですが、さっきもこの気球のあたりを探していましたが、その憲兵さんの話を聞くと、先月横浜沖に碇舶《ていはく》していた貨物船から無断上陸をして逃げたソ連共産党の幹部スパイで、キンチャコフとかいう大物も交っているらしく、なかなかたいへんな捕物なんですよ」
「キンチャコフだって、どっかで聞いたような名前だ。だが、キンチャコフはどこまでもキンチャコフで、監視哨はどこまでも監視哨なんだ。さあ、係員にそういって予定の時刻が来たから、早く気球の綱《つな》をとくようにいってくれたまえ」
「へえ、やっぱり六条さんは、一人で上へあがるのですか」
「さっきから幾度もそういっているじゃないか。係員にそういってくれ。ぐずぐずしているようなら勝手にこっちが綱を切ってとびあがるぞと、きびしく一本|突込《つっこ》んでおいてくれ」
「えっ、気球の綱を切る? あなた、いくら冗談でもそんな乱暴なことをいうものじゃありませんよ。気球の綱を切れば、地球の外へ吹き流されてしまうじゃありませんか」
「はっはっはっ。もういいから、早く係員に催促《さいそく》をしてきてくれ」
「へえ、かしこまりました」
 老人が向うへかけだしてゆくと、気球のところには六条壮介ひとりとなってしまった。風は相変らずひゅうひゅうと耳許《みみもと》に唸《うな》って、地上わずかに一メートル上のゴンドラが、がたがた揺れる。闇の空をすかしてみると、気球は天に吠えているように巨躰をぐらぐらゆすぶっていて、気になるほど、綱がぎしぎしいっている。
 六条の待っている係員は、一向姿をあらわさなかった。
「なにをしているんだろう」
 と舌打して、彼は真暗な××陣地一帯をずーっと見まわした。すると、ときどき蛍《ほたる》の火のように、懐中電灯がいくつもちらちら点滅するのが見られた。捜索隊にちがいない。
「ふん、やっぱり本当なんだな。怪しい奴がしのびこんだというのは……」
 だが、きびしい軍律の中で生活してきた「火の玉」少尉にとっては、たとえ傍に何事があろうと、気球が予定の時刻に上昇しないことについて甚《はなは》だ不満であった。
「しようがないなあ。降りていって、一つうんと文句をいってやろうか」
 と思っていると、ゴンドラが急にごとんと大きく揺《ゆ》れて、地上から二三メートル上に飛びあがった。それは地上に置いてある信号灯が俄《にわ》かに遠くなったことからも知られた。
「おや、どうしたのかな」
 そういっているうちに、ゴンドラはまた一つごとんと揺れて、また二三メートル上に飛びあがった。
「はてな、――」
 そのとき少尉は、地上の信号灯の前に一つの人影が大童《おおわらわ》になって綱を解こうとしているのを認めた。
「おお、やっと気球係の地上員がやって来たんだな。いくらなんでも、たった一人では、ちと無理だ」
 そういっているとき、ゴンドラはまた大きくごとんと揺れ、と
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