下《お》りようではないか」
「なにを。下りるのはいやだ。わしは泳げないんだからな」
「俺が助けてやろう」
「いやだといったらいやだ。このピストルが眼にはいらないのか」
 キンチャコフはピストルをふりまわした。
「うーぬ、貴様。さっきからピストルをかまえて、それで俺を嚇《おど》かしつけているつもりなのか」
「なにを、来るか日本人。来てみろ、一発のもとに赤い花が胸から咲きでるだろう」
「莫迦野郎《ばかやろう》!」
 といったのと、轟然《ごうぜん》たる銃声が耳許にひびいたのと、ほとんど同時だった。
「うーむ、やったな」
 六条は、突然右|胸部《きょうぶ》に焼火箸《やけひばし》をつきこまれたような疼痛《とうつう》を感じた。胸に手をやってみると、掌《てのひら》にベットリ血だ。とたんに彼ははげしく噎《む》せんだ。がっがっがっと、咽喉《のど》の奥から音をたてて飛びだしたのは、真赤な鮮血だった。
「畜生、やりやがったな」
「火の玉」少尉は重傷に屈せず、奮然《ふんぜん》と立ち上った。そしてキンチャコフがピストルを握り直そうとしたところを、すかさずとびこんで足蹴《あしげ》にした。ピストルが、ぽーんと上に跳《は》ね上ったと思ったら、ゴンドラの外にとびだした。
「あっ、失敗《しま》った!」
 と、キンチャコフがゴンドラの外に手を伸そうとしたとき、踏みこんだ「火の玉」少尉は、腹立ちまぎれに右手でぴしりとキンチャコフの脳天をなぐりつけた。その右手は、ただの手ではなかった。鋼鉄製の義手《ぎしゅ》だった。キンチャコフは獣のような悲鳴をあげると、へたへたとゴンドラの底にその身体を折り崩《くず》した。
「火の玉」少尉は、相手がうごかなくなったのを見ると、そのまま自分も瞠《どう》とその場に倒れた。しかしそれから十数分とたたないうちに、彼はまたむくむくと頭をもちあげた。そしてとうとうその場に起きあがって、また口から血を吐いた。
「うーむ」
 彼はぐっと歯を喰いしばった。そして胸のあたりをさすっていたが、やがて上衣《うわぎ》をまくって白い襯衣《シャツ》をひきだし、べりべりと破った。彼はその破った襯衣《シャツ》で、傷口をおさえて血止めにした。なお彼の眼と手とは動いて、そこにあったズックの布を引裂きにかかったが、ついに及ばず、そのズックの布を砲《かか》えたままその場にどっと転がった。

 それが「火の玉」少尉の、これまで連続していた記憶の切れ目であったのである。
 そのころ、人事|不省《ふせい》の両人をのせた気球は、不連続線の中につき入って、はげしく翻弄《ほうろう》されていた。ものすごい上昇気流が、気球をひっぱりこんだから、たまらない。今の今まで下降一方だった気球は、あべこべにぐんぐん上昇をはじめた。一千メートル、二千メートルは、瞬間にとび越して、まるで地球の外にとんでいってしまうかのように、なおもぐんぐんと雲と雲の間を昇っていった。あたりは、岩窟《がんくつ》に入ったように真暗で、そして雹《ひょう》がとんでいた。折々ぴかりとはげしい電光が、密雲の間で光った。
 それからどの位経ったか、よく分らない。キンチャコフの方が先に気がついたらしく、そのころ六条は、気息奄々《きそくえんえん》としてゴンドラの底に横たわっていた。キンチャコフが六条を絞め殺そうとすれば、わけないことであったけれど、彼は別になんにもしなかった。それはどういうわけだかよく分らないが、キンチャコフは、もう再び六条を襲うのがいやになったのかもしれないし、或いはまだ鮮血を胸から顔から一杯に彩《いろど》ったすさまじい六条の姿に怖《お》じ気《け》をふるった結果かもしれなかった。もちろんキンチャコフも、意識だけがよみがえったというだけで、ゴンドラの底に身うごきもしないで転っていることは、六条の場合と大差《たいさ》なかったのである。
「うーむ、よく眠った」
 これが意識を回復した六条がいった最初の言葉だった。
 それからまたあと三時間ばかり、彼は昏々《こんこん》として眠った。
 その次に目覚めたとき、彼は本当に気がついたのであった。ゴンドラの中には飛びちった血の痕《あと》がもうくろずんでいた。ふしぎに生きているなという気持であった。彼は左手をのばして、あたりを幾度も幾度もさぐっていた。やがて硬い丸いものが二つ三つ、彼の指先にふれた。
 握りしめて、眼の前へもってきて開くと、それは固形ウィスキーであった。ああ天の助けだなと、そのとき彼は思ったことであった。
 彼は、貪《むさぼ》るように、その二つを喰べた。それはまるで霊薬《れいやく》のごとくに、彼を元気づけた。彼は思わず、最後の一つを口のところへ持っていきかけたが、急にそれをやめて、
「キンチャコフ!」
 とよんだ。
「……」
 キンチャコフの腕が、六条の腕の方につつーっと搦
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