――というのはあの松風号にのって出発した二人の内、一人の方が……」ここで相良十吉は何を思い出したのか、ブルブルと身体をうちふるわせ、じっとあたりに気を配るようであったが、「一人の方が、現にこの東京に帰ってきているのを、この私が見たのです!」
 そう言い終ると相良十吉はワナワナふるえる手を挙《あ》げて頭髪をかきむしった。
「それは人違いではないのですか」
「いえ、なんで人違いなもんですか。たといそれが彼の幽霊であったとしても、それは人違いではないのです」
 相良十吉はもはや冷静を装《よそお》いきれないという風に、息をはずませて早口に語り出した。
 それによると、彼は今も越中島《えっちゅうじま》の航空機製作会社につとめているが、今では技師長の職に在る。それは今から七日程前のことだった。其の日は重役との相談が長引いたので、会社の門を出た時は、もう薄暗かった。彼の家は月島《つきしま》にあったので、いつも越中島の淋しい細道を通りぬけて行くのであった。そこは、越中島埋立の失敗から、途中に航空研究所と商船学校のある外は人家とてもなく、あたり一面、気味の悪い沼地になっていて、人の背丈ほどもある蒲《がま》が生《お》い繁《しげ》っていた。
 沼地に沿って半道も来たときだった。突如、右側の沼地の中から全身にしずくをたらした真黒な人間が蛙《かえる》のように匍《は》い出して来たものである。相良は顔色をかえて後にとびすさったのを、知ってか知らでか、この気味のわるい人間は細道の中央につき立ち上りフラフラとよろめいたと思うと、今まで下げていた顔をパッと相良の方へ向け直したのであった。ああ其の顔は!
 狭い額、厚い唇、そして四角に折れた顎骨。それに耳の下から頤《あご》へかけて斜に、二寸位の創痕《きずあと》をありありと見た。おお、松風号に同乗した機関士|松井田四郎太《まついだしろうた》! もう二十年前に、どこかで死んでしまった筈の松井田機関士。相良十吉は眼を蔽《おお》うて大地に崩れ坐った。
 彼が再び顔をあげたときには、松井田の姿はどこへ行ったのかもう見えなかった。あれは幽霊だったのかとも思ったが、そこら一面にぐっしょり水にぬれていて、沼地から匍い上って来たのを証拠立てていた。彼は蒲の穂がガサガサすれ合うのを聞くと急に恐しくなって夢中で駈け出した。
 其の日はこれですんだが、翌日は、やはりこの細道の電柱のかげから、松井田が現われた。今度は意外にも立ち消えはせず、彼の方へ向って、ノソノソ歩いて来るので、彼は懸命の勇気をふるって、
「松井田君! おい、松井田君じゃないか?」
 と声をかけたのだが、その怪人物は、一言も発しないで、相良十吉の側をすれちがうと、海辺の方へヨロヨロと歩み去るのであった。
 次の日は、夜に入《い》って、彼が月島の自宅から、銭湯《せんとう》に行ってのかえりに、小橋《こばし》の袂《たもと》から、いきなり飛び出して来た。
 相良十吉は思った。松井田は気が変になっているに違いないと。それにしては余りに穏《おだや》かな行動だった――彼の目の前にずかずか現われて、気味をわるがらせる外は……。
 又その次の日からは相良十吉の家の周りに現われるようになった。いよいよ気味が悪くなったので、妻にこんな人物を見かけなかったかと聞いたが、妻は知らぬと答えた。お手伝いさんや娘の真弓子《まゆみこ》も知らぬと言った。松井田を見るのは相良自身だけらしい。
 昨夜《ゆうべ》は寝室のカーテンの蔭からのぞき込んでいた。いやらしい頬の傷跡をわざと見せつけたように思われた。
 相良十吉は、この頃になって、自分の生命《せいめい》が松井田に脅《おど》されているのを感じないわけには行かなかった。彼の懐《ふところ》にしのばせた短刀には、既に松風号の操縦士、風間真人《かざままなんど》の血潮がしみついているのではなかろうか。
 松井田が生きているとすれば、松風号はどうしたろう。風間操縦士は生きているのか? 風間と自分とは殊に深い友人だった。松風号の行方不明になった時も、あの位方々を探し廻ったほどだった。松井田がたとえ気が変になっているとしても、せめては風間真人の消息だけでも何とかして知りたいものである、と相良は述べたてた。
 私は訊《き》いてみた。
「じゃ何故、彼の腕をとって、貴方のお家へ連れこまないのですか」
「あいつは馬鹿力を持っています。彼奴《きゃつ》の腕にさわることができても、それこそ工場のベルトに触れでもしたかのようにイヤという程、跳返《はねかえ》されるばかりです」
「官憲の手を借りてはどうです」
「それも考えないじゃありません。が、先生。あの有名な事件の人物が二十年後の今日、発見されたことがわかったが最後、可哀想な松井田は警官と新聞記者とに殺到されて、あの男の頭はどこまで変になるか知
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