こっそり麓村《ふもとむら》に現われた。それから間もなく、一周機の失跡《しっせき》も知った。彼は名のって出るべきでありながら一向それをしようとはしなかった。松井田は極く若い青年時代にある事情から殺人罪を犯している身の上だった。いま名乗って出れば、松風号の失跡について、なにからなにまでうさんくさく調べられることがわかっていた。かれは自分の身の上までの露見《ろけん》を恐れたのだ。それからというものは、彼はずっと島根県にブラブラしていた。それがこの頃、東京へ出て来たのには訳がある。彼は一つの疑問を持っていた……」
ここまで私が喋《しゃべ》りつづけると、いきなり相良が金切声《かなきりごえ》をあげて叫んだことである。
「あとは判った。イヤなにもかも判ったです。その辺に松井田が現われたら、彼に言って下さい。お前は大馬鹿者だ、トナ」
猶も相良は口の中でブツブツ呟《つぶや》いていた。
自動車が三人を乗せて新宿まで来たときに、私一人は降り、根賀地に相良を自宅まで送りとどけるように命じたのであった。新宿街のペイブメントには、流石《さすが》に遊歩者《ゆうほしゃ》の姿も見当らず、夜はいたくも更《ふ》けていた。
次の日の朝であった。例によって私は午前十時に目を醒《さ》ました。窓を開いて見ると珍《めず》らしく快晴だった。ベルを鳴らすと、執事の矢口と、根賀地が入って来た。
「先生、あの若僧《わかぞう》はどうしましょう。先生の傷はどうですか」
と根賀地が尋《たず》ねた。私は左腕を少し曲げてみたが、針でさすような疼痛《とうつう》につきあたった。
「昨夜《ゆうべ》、あれから手術をやって貰ったのでもう心配はない。それからあの若先生だが、もう三十分もしたらこっちへ来て貰うのだナ。昨夜《ゆうべ》相良氏はどうした?」
「あの男は、今朝も例のとおり、会社へ出かけてゆきましたよ。青い顔はしていましたが不思議に元気でしたよ。昨夜《ゆうべ》の容子《ようす》じゃ、自殺するかナ、と思いましたが、今朝の塩梅《あんばい》じゃ、相良十吉少々気が変なようですね」
「なにか手に持っていたか」
「近頃になく持ちものが多いようでしたよ。手さげ鞄《かばん》に小さい包が二つ」
ここで私は黙り込んだ。不図《ふと》眼をあげると根賀地が常になく難しい面持をしていた。そして急に私を呼びかけたのである。
「先生。今度の事件ばかりは、僕に
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