きい物音がした。
 イキナリ、箱の蓋が、ガタリと開いて、真黒の顔をした男がヌッと、上半身を出した。咄嗟《とっさ》に、髯男は気がついて、死んだ青年が、背負っていたマスクの一つを、その男の頭に、スッポリ、被せてやった。それはまさしく時機に適したことだった。周りにはホスゲンの嫌《いや》な臭《にお》いが、いまだプンプンとしていた。
 その男は、防毒マスクに気がついたのでもあろうか、側《かたわ》らを指さした。髯男が見ると、そこには、若い女が、彼女の子供でもあろうか、赤ン坊を、しっかり胸に抱いていた。髯男は駭《おどろ》いて、機を外《はず》さず、残りの二つのマスクをめいめいに被せてやった。その一つは、偶然にも、当歳の赤ン坊用のマスクだった。
「なんという不思議な暗合だろう。親子三人に、親子三人用のマスク!」
 髯男は、六《むず》ヶ|敷《し》い数学解法を発見でもしたかのように、驚嘆《きょうたん》した。
 だが、この親子三人が、花川戸《はなかわど》の鼻緒問屋《はなおどんや》下田長造の長男、黄一郎《きいちろう》親子であり、マスクを背負っていた死青年は、同じく長造の三男にあたる弦三であり、弦三は死線を越えて、兄達に手製のマスクを届けようと、負傷の身を堪《こら》えてどうやら此の場所まで来たところを、自制のない群衆のため、無残にも踏み殺されたものであって、弦三は死んだが、その願いは、極《きわ》どいところで達せられたことを髯男が知ったなら、彼はどんな顔をして駭《おどろ》いたことであろうか。いや、あとで、黄一郎親子が、マスクの裏に記された「弦三作《げんぞうさく》」の銘《めい》に気がついたなら、どのように叱驚《びっくり》することだろうか。
 しかし、そのときは、一切が夢中だった。黄一郎親子は、仮りの避難所である塵箱《ごみばこ》の中に居たたまらず、一と思いに死ぬつもりで蓋を払ったところを、思いがけなく防毒マスクを被されたので「助かるらしい」と感じた外は他を顧《かえりみ》る余裕《よゆう》もなかったのだった。しかも、背後には、恐ろしい火の手が迫っていた。黄一郎親子は、感謝すべき肉身の死骸の直ぐ傍に立っておりながらも、遂にそれと気付かず、蒸し焼きにされそうな苦痛から脱れるため、後をも見ずに逃げだした。
 それに続いて、髯男が、やっと気がついたらしい印袢纏《しるしばんてん》の男を、引立てながら、これも逃げだしたのだった。
「あっし[#「あっし」に傍点]は、恥《はず》かしい!」
 死人の顔から、防毒マスクを奪いとろうとした浅間しい行為を恥じるものの如く、印袢纏《しるしばんてん》氏は、マスクの中で、幾度も、幾度も、苦吟《くぎん》を繰返した。
 大通りの軒《のき》を境に、火焔と毒瓦斯とが、上下に入り乱れて、噛み合っていた。


   咄《とつ》! 売国奴


 愛宕山《あたごやま》の上では、暗黒の中に、高射砲が鳴りつづいていた。照空灯が、水色の暈光《うんこう》をサッと上空に抛《な》げると、そこには、必ず敵機の機翼《きよく》が光っていた。円《まる》の中に星が一つ――それが、米国空軍のマークだった。
「グわーン、グわーン」
 高射砲の砲口から、杏色《あんずいろ》の火焔が、はッはッと息を吐いた。敵機は、クルリと、横転《おうてん》をすると、たちまち闇の中に、姿を消して行った。異様なプロペラの唸《うな》り声《ごえ》が、明らかに、耳に入った。
 照空灯は、サッと、光を収めた。
「ラッ、タッ、タッ」
 頭上に、物凄いエンジンの響が、襲いかかった。
「ラッ、タッ、タッ」こっちでも、高射機関銃が打ちだした。
 ぱッ――。くらくらッとする鋭い光に照された。
「ど、ど、ど、ど、どーン」
 ゆらゆらと、愛宕山《あたごやま》が揺《ゆら》いだ。
「少尉殿、少尉どのォ!」
 誰かが、根《こん》を限《かぎ》りに呼んでいる。
「オーイ」社殿《しゃでん》の脇《わき》で、元気な返事があった。
「少尉殿。聴音機第一号と第三号とが破壊されましたッ」
「第四号の修理は出来たかッ」
「まだであります」
「早く修理して、第二号と一緒に働かせい」
「はいッ。第四号の修理を、急ぐであります」
 兵は、バタバタと帰っていった。
(聴音機が、たった一台になっては、この山の任務も、これまでだナ)
 東山少尉は、暗闇の中に、唇を噛んだ。七台の聴音機は、六台まで壊れ、先刻の報告では、高射砲も三門やられ、のこるは二門になっていた。
 兵員は?
 もともと一小隊しか居なかった兵員は、四分の一にも足らぬ人数しか、残っていなかった。
「ピリピリ。ピリピリ」
 振笛《しんてき》が、けたたましく鳴り響いた。毒瓦斯が、また、やってきたらしい。
 何か、喚《わめ》く声がする。胡椒臭《こしょうくさ》い、刺戟性《しげきせい》の瓦斯《ガス》が、微《かす》か
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