。その中の一人は、マスクの上から、白い布で、いたいたしく、頭部をグルグル捲《ま》きにしていた。
 消防自動車は、ヨロヨロよろめきながら、燃えあがる建物めがけて、驀進《ばくしん》していった。二人の消防手は、いつの間にか、舗道《ほどう》の消火栓の前で、力をあわせて、重い鉄蓋《てつぶた》をあけようと試みていた。
 郊外へ遁《に》げようと、洪水のように押出してきた、さしもの大群衆も、前面から襲ってきた毒瓦斯に捲きこまれて、一溜《ひとたまり》もなく、斃《たお》れてしまった。雑沓《ざっとう》の巷《ちまた》は、五分と経たぬ間に、無人郷《ノーマンズ・ランド》に変ってしまった。その荒涼《こうりょう》たる光景は、関東大震災の夜の比ではなかった。
 大通りのところどころには、それでも、三人、五人と、異様な防毒マスクを嵌《は》めた人達が集結して、ゴソゴソやっていた。
「どんな人を、救護しますか」
 大蜻蛉《おおとんぼ》の化物のような感じのする防毒マスクが二つ倚《よ》り合《あ》って、辛《かろ》うじて、こんな意味を通じた。
「救護して、あとで戦闘ができそうな人を選べ!」
 一方が、赤色手提灯《あかいろてちょうちん》の薄い光の下に、手帖を展《ひろ》げて、読みにくい文字を書いた。
 他の一人が、それを見て、隊長らしいのをグングン向うへ引張っていった。彼は手真似で、隊長に話をした。
「そこの横丁の塵箱《ごみばこ》の中から赤ン坊の泣声がするが、助ける必要はないか?」
 指《ゆびさ》すところに、真黒な大塵箱《おおごみばこ》があって、明かに、赤ン坊の泣き声がする。後から駈けつけた一人が、近づいて、イキナリ、塵箱の蓋を開けようとした。隊長らしい男が、駭《おどろ》いた風で、塵箱にかかった男の腕を捉《とら》えた。そして部員を促して、毒瓦斯の沈澱する向うの闇へ、前進していった。
(開けば、塵箱の中の赤ン坊は、直ぐ死ぬだろう。開かないのが、せめてもの情けだ)
 そんなことを、隊長は、考えていた。
 また一つ、崩れるような大きな爆発音がして、新宿駅の方が急に明るく火の手があがり、それが、水でも流したように、見る見るうちに四方八方へ拡がり、あたり近所が、一度に、メラメラと燃え出した。焼夷弾《しょういだん》が落ちたらしい。
 焔に追われたような形で、最前の、マスクを被った髯男《ひげおとこ》と、マスクの代りに手拭様《てぬぐいよう》のもので顔の下半分を隠した例の印袢纏《しるしばんてん》の男とが兎のように跳《は》ねながら、こっちへ、やってきた。
 赤ン坊の泣き声がするという塵箱の傍まで来たときに、印袢纏の男は、急にガクリと、地上に膝をついた。
「く、く、苦しい。先生、ク、ク、薬を、もっと、もっと、入れて下さいィ――」
 印袢纏の男は、始めの元気を何処かへ振り落していた。彼は自分の猿轡《さるぐつわ》を掻きむしるように外《はず》すと、髯男の方へ、片手を伸ばした。どうやら、髯男が、持ち合わせの漂白粉《ひょうはくふん》と活性炭素《かっせいたんそ》を利用して、応急のマスクを作ってやったのが、もう利かなくなったらしい。
 髯男は、マスクの硝子越しに、連れの顔を覗《のぞ》きこんだ。
「呀《あ》ッ、マスク! マスク!」
 印袢纏の男は、何を見たのか、猛然と上半身を起こして、すぐ目の前に転《ころが》っている一個の死体にとびついた。彼は、死体の顔に嵌《はま》っている防毒マスクを、力まかせに、もぎとろうとした。
 髯男は、あまりの浅間しさに、唯《ただ》もう、あきれ顔に立っていた。
 マスクは、死体から、ポクリと外れた。マスクの下には、若い男の、苦悶にみちた死顔があった。
 印袢纏は、奪ったマスクに狂喜して、自分の顔に充てたがどうしたものか、その場に昏倒《こんとう》してしまった。髯男は、すぐさま駈けよって、防毒マスクを被せてやった。印袢纏は、その儘《まま》動かず、地上にながながと伸びていた。
 髯男は、マスクを外された若い男の傍に近よった。その青年は、もう疾《とっ》くに死んでいた。それは勿論、瓦斯中毒ではないことは一と目で判った。下半身が滅茶滅茶にやられているのだった。次第に燃えさかってくる一帯の火災は、無惨《むざん》にも血と泥とにまみれた青年の腹部を、あかあかと照しだした。
 死んだ青年は、背中に大きい包みを背負っていた。髯男《ひげおとこ》は、それが、なんとなく気懸《きがか》りになったので、手早く解いてみた。その中から、ゴロリと転りだしたのは、真黒の、三つの防毒マスクだった。
「ほう、防毒マスク?」
 髯男は、不審そうに、あたりを見廻した。
「ヒイヒイ」
 そのとき、枯れきったような赤ン坊の泣き声がした。
「おお、このゴミ箱に、人間がいるッ!」
 ゴトリゴトリ、大塵箱《おおごみばこ》の内部で、赤ン坊にしては大
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