ぜ。どうせ、今夜は、仕事が休みなんで」
「僕は、早く研究室へ行きたい――」
「あっし[#「あっし」に傍点]が力を貸しましょう。皆、向うから、こっちを向いてくるのに、先生とあっし[#「あっし」に傍点]だけは、逆に行くんだ。裏通をぬけてゆかなくちゃ、迚《とて》も、進めませんぜ」
「君は、防毒マスクを持ってるかい」
「持ってませんよ、そんなものは」
「それでは、毒瓦斯がやってくると、やられちまうぞ。悪いことは云わぬ。その辺の、毒瓦斯避難所へ、隠れていたまえ。生命が無くなるぞ」
「毒瓦斯かネ」印袢纏は、やや悲観の声を出した。「先生、手拭《てぬぐい》では駄目かネ」
「手拭じゃ駄目だ」
「手拭に、水を浸《ひた》しては、どうかネ」
「そんなことで、永持ちするものか」
「そいつは、弱ったな」
 二人が、押問答をしているとき、新宿の大通りでは、突如として、修羅《しゅら》の巷《ちまた》が、演出された。
 うわーッという群衆の喚《わめ》き声《ごえ》が、市外側の方に起った。それに交って、ピリピリと、警笛が鳴った。
「瓦斯弾が、落ちたぞオ」
「毒瓦斯がきたぞオ」
 どッと、避難民の群は、崩れ立った。
 避難路の前面に、瓦斯弾が落ちたらしく、群衆は悲鳴をあげて、吾勝ちに、引っ帰してきた。それが、市内の方から、押しよせてくる何万、何十万という、まだ瓦斯弾《ガスだん》の落ちたことを知らない後続《こうぞく》の避難民と、たちまち正面衝突をした。老人や、女子供は、呀《あ》ッという間もなく、押し倒され、その上を、何千人という人間が、踏み越えていった。瞬《またた》く間に、新宿の大通には、千四五百名の死骸が転った。その死骸は、どれもこれも、眼玉はポンポン飛び出し、肋骨《ろっこつ》は折れ、肉と皮とは破れて、誰が誰やら判らない有様になった。すこしでも強い者、すこしでも運のいい者が、前に居る奴の背中を乗越え、頭を踏潰して、前へ出た。腰から下半身一帯は、遭難者の身体から迸《ほとばし》り出た血潮で、ベトベトになった。まるで、赤ペンキを、一面に、なすりつけたような恐ろしい色彩《いろどり》だったが、暗黒の中の出来事とて、それに気のつく者が無かったのは、不幸中の幸《さいわい》だった。もしその血の池から匍い出してきたような下半身が、お互いの目に映ったなら、幾万人の避難民は、あまりの浅間しさに、一時に錯乱してしまったことだろう。
 そんなにまで一心になって、迫りくる毒瓦斯から脱れようと人々は藻掻《もが》いたが、一尺逃げると二尺押返えされ、一人を斃《たお》すと、二人が押して来、そのうちに、咽喉のあたりが、チカチカ痛くなった。
「瓦斯だッ」
 と気のついたときには、既に遅かった。魚の腸《はらわた》が腐ったような異臭が、身の周《まわ》りに漂《ただよ》っているのだった。胸の中は、灼鉄《やきがね》を突込まれたように痛み、それで咳《せき》が無暗《むやみ》に出て、一層苦しかった。胸から咽喉のあたりを締めつけられるような気がした。金魚のように、大きく口をパクパクやったが、呼吸はますます苦しくなった。頭がキリキリと痛くなり、眩暈《めまい》がしてきた。前の人間の肩をつかもうとするが、もう駄目だった。地球が一と揺れゆれると、堅い大地が、イヤというほど腰骨にぶつかった。全身が、木の箱か、なんかになってしまったような感じだった。
「うー、痛ッ」
 誰かが、太股を踏みつけた。
「うーむ」
 腹の上を、靴で歩いている奴がいる。
「うわーッ」
 胸の上で躍っているぞ。肋骨が折れる、折れる。
「ぎゃーッ」
 頭を足蹴《あしげ》にされた。腹にも載《の》った。胸元《むなもと》を踏みつけては、駆けだしてゆく。あッ、口中《こうちゅう》へ泥靴を……。
 あとは、なにがなんだか判らなかった。
 パタリパタリと、群衆は、障子《しょうじ》を倒すように、折重なって倒れていった。
 街の片端から、メラメラと火の手があがった。濛々《もうもう》と淡黄色《たんこうしよく》を帯びた毒瓦斯が、霧のように渦を巻いて、路上一杯に匍《は》ってゆく。死屍累々《ししるいるい》、酸鼻《さんび》を極《きわ》めた街頭が、ボッと赤く照しだされた。市民の鮮血《せんけつ》に濡れた、アスファルト路面に、燃えあがる焔が、ギラギラと映った。横丁《よこちょう》から、バタバタと駈け出した一隊があった。彼等は、いずれも、防毒マスクを、頭の上から、スッポリ被《かぶ》っていた。隊長らしいのが、高く手をあげると、煙りの中に突進していった。後の者も、遅れずに、隊長のあとを追った。それは任務に忠実な、生き残りの青年団員でもあろうか。
 近くに、サイレンの響がした。毒瓦斯の間からヒョックリ顔を出したのは、真赤な消防自動車だった。だが、車上には、運転手の外に、たった二人の消防手しか、残っていなかった
前へ 次へ
全56ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング