誰かが、隊の中から、叫んだ。
「甲州街道だッ。もっと早く歩けッ!」
「中野の電信隊を通りぬけるまでは、安心ならないぞォ!」
 嗄《しゃが》れた、空虚な叫喚《きょうかん》が、暗闇の中に、ぶつかり合った。
 群衆の半数を占める女達は、疲労と恐怖とで、なんにも口が利けないのだった。唯、母親の背で、赤ン坊が、ヒイヒイと絶え入りそうな悲鳴を、あげていた。
 この大群衆は、東京を逃げだしてゆく市民たちだった。爆弾と、毒瓦斯と、火災とに追われて、生命を助かりたいばっかりに、めいめいの家を後に、逃げだしてゆく人々だった。
 何万人という群が、あの広い新宿の大通にギッシリ填《つま》って、押しあい、へしあい、洪水《こうずい》の如く、流れ出てゆくのだった。すべては、徒歩の人間ばかりだった。円タクやトラックの暴力をもってしても、この真黒な人間の流れは、乗り切れなかった。無理に割りこんだ自動車もあったが、たちまち、人波にもまれて、橋の上から、突き落されたり、米軍の爆弾が抉《えぐ》りとっていった大孔《おおあな》の底に転がりおとされたりして、車も人も、滅茶滅茶になった。
 避難民の頭上には、姿は見えないが、絶えず、飛行機のプロペラの唸りがあった。叩きつぶすような、機関銃の響が、聞えてくることもあった。何が落下するのか、屋根の上あたりに、キラキラと火花が光って、やがてバラバラと、礫《つぶて》のようなものが、避難民の頭上に降ってきた。
「ウ、ウ、グわーン、グわあーン」
 大地が裂けるような物音が、あちらでも、こちらでもした。それは、ひっきりなしに、米軍が投げおとす爆弾の、炸裂《さくれつ》する響だった。その度《たび》ごとに、
「キャーッ」
「こ、こ、こ、殺して呉《く》れッ」
「あーれーッ」
 と、此の世の声とは思えぬ恐ろしい悲鳴が聞えた。阿鼻叫喚《あびきょうかん》とは、正に、その夜のことだったろう。
 その狂乱の巷《ちまた》の真ッ唯中に、これは、ちと風変りな会話をしている二人の男があった。
「旦那、もし、旦那」印袢纏《しるしばんてん》を着ていることが、紺《こん》の香《かおり》で、それと判った。
「ウ、なんだネ」
 こっちは、頤髯《あごひげ》がある――向う側のビルディングの窓硝子《まどガラス》が照空灯の反射で、ピカリと閃《ひらめ》いたので、その頤髯《あごひげ》が見えた。
「いま、何時ごろでしょうかネ」熱ッぽい、調子|外《はず》れの声が、きいた。
「そうだナ――」頤髯男は、どッと、ぶつかってくる避難民の一人を、ウンと突き戻すと、クルリと後を向いて、夜光時計の文字盤を眼鏡にスレスレに近づけた。
「ああ、午後九時だよ」
「九時ですかい」印袢纏《しるしばんてん》は、間のぬけた声をだした。
「今夜は、莫迦《ばか》に、夜が永いネ」
「ほほう」髯は、暗闇の中で、眼を丸くしたのだった。
「君は、ずいぶん、落付いてるナ」
「旦那は、どこへ逃げなさるんで……」
「僕かい?」髯は、湖のような静かな調子で云った。
「僕は、これから、研究室へ、出勤するんだ」
「冗談じゃありませんぜ、旦那」印袢纏が呆れたような声をだした。「夜更《よふけ》の九時に、出勤てのは、ありませんよ。それに、旦那の行くところはどちらです」
「神田《かんだ》の駿河台《するがだい》だよ」
「へへえ、すると旦那は、お医者さまかネ」印袢纏は、駿河台に病院の多いのを思い出したのだった。
「ちがうよ」と、あっさり云った。「君は、どこへ逃げるのかい」
「あっし[#「あっし」に傍点]のことかネ。あっし[#「あっし」に傍点]は、逃げたりなんぞ、するものか。今夜は閑暇《ひま》になったもんだから、一つ市中へ出てみようと思うんで」
「ナニ、閑暇《ひま》だから、市中へ出る――」髯は、髯をつまんで、苦笑した。「それにしては、すこし、空中も、地上も騒がしいぞ」
 その言葉を、裏書するように、どーンと又一つ、火柱が立った。赤坂の方らしい。
「あっし[#「あっし」に傍点]は、平気ですよ」印袢纏が言った。「ねえ旦那、アメリカの飛行機が、攻めて来たかは知らねえが、東京の人間たちのこの慌《あわ》て加減は、どうです。震災のときにも、ちょいと騒いだが、今度は、それに輪を十本も掛けたようなものだ。青年団が何です。消防隊が何です。交通整理も、在郷軍人会も、お巡りさんも、なっちゃいない。第一、あっし[#「あっし」に傍点]達の献納《けんのう》した愛国号の働きも、一向無いと見えて、この爆弾の落っこちることァ、どうです。防護隊というのがあるということだが、死人同様だァな、畜生」
 髯は無言で、場所を出てゆこうとしたが、生憎《あいにく》、又ピカリと窓硝子が光ったので、印袢纏《しるしばんてん》に発見されてしまった。
「旦那、行くんなら、あっし[#「あっし」に傍点]も、お伴します
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