都の彼方此方《かなたこなた》には、三四ヶ所の火の手が上っていた。
次の爆弾が、空から投げ落とされる度《たび》に、物凄い火柱が立って、それは軈《やが》て、夥《おびただ》しい真白な煙となって、空中に奔騰《ほんとう》している有様が、夜目にもハッキリと見えた。そして、その次に、浮び出す景色は、嘗《かつ》て関東大震災で経験したところの火焔の幕が、見る見るうちに、四方へ拡がってゆくのであった。
弦三は、地響きのために、いまにも振り落されそうになる吾が身を、電柱の上に、しっかり支《ささ》えている裡《うち》に、やっと正気《しょうき》に還ったようであった。
彼は、こわごわ、電柱を下りた。
地上に降り立ってみると、そこには又、先刻《さっき》と違った光景が展開しているのだった。
どこで、やられて来たものか、呻《うめ》き苦しんでいる負傷者が、ガードの下に、十五六人も寝かされていた。
「ヒューッ」どこからともなく、警笛《けいてき》が鳴った。
「毒瓦斯《どくガス》だ、毒瓦斯だッ!」
「瓦斯がきましたよ、逃げて下さい」
「風上《かざかみ》へ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい」
肝心《かんじん》の××町というのが、サッパリ聞きとれなかった。
広瀬中佐の銅像の向うあたりに、うち固って狂奔《きょうほん》する一団の群衆があった。
「やッ、ホスゲンの臭《にお》いだ!」
弦三は、腰をさぐって、彼の手製になる防毒マスクを外した。そのうちにも、ホスゲン瓦斯特有の堆肥小屋《たいひごや》のような悪臭が、だんだんと、著明《ちょめい》になってきた。彼は、防毒マスクをスッポリ被ると、すこしでも兄達の住んでいる方へ近づこうと、風下である危険を侵し、避難の市民群とは反対に、神保町《じんぼうちょう》から、九段《くだん》を目がけて、駈け出していった。
だが、神保町を、駈けぬけきらぬうちに、弦三は運わるく、近所に落ちた爆弾の破片を左脚にうけて、どうとアスファルトの路面に倒れてしまった。
「なに糞、こんなところで、死んでなるものか!」
彼は歯を喰いしばった。
路面に転っていると、群衆に踏みつぶされる虞《おそ》れがあるので彼は痛手《いたで》を堪《た》えて、じりじりと、商家《しょうか》の軒下へ、虫のように匍《は》っていった。
右手を伸ばして、傷口のあたりをさぐってみると、幸《さいわ》いに、脚の形はあったが、まるで糊壺《のりつぼ》の中に足を突込んだように、そのあたり一面がヌルヌルだった。湧き出した血の赤いのが、この暗さで見えないのが、せめてもの幸いだったと、弦三は思った。
「おお、これは――」
その家の窓下で、弦三は不思議な音楽を耳にした。
それは正《まさ》しく、この家の中から、しているのだった。
雑音のガラガラいう、あまり明瞭《めいりょう》でない音楽だったけれど、曲目《きょくもく》は正しく、ショパンの「葬送行進曲《ヒューネラル・マーチ》」
嗚呼《ああ》、葬送曲!
一体、誰が、いま時分「葬送行進曲《そうそうこうしんきょく》」をやっているのだろう。
彼は痛手《いたで》を忘れて、窓の枠《わく》につかまりながら、家の中を覗《のぞ》きこんだ。
おお、そこには蝋燭《ろうそく》の灯影《ほかげ》に照し出されて、一人の青年が倒れていた。その前には、小さいラジオ受信機が、ポツンと、座敷の真中に、抛《ほう》り出されていた。
音楽は、紛《まぎ》れもなく、そのラジオ受信機から出ているのだった。
(JOAKが、葬送曲をやっているのだろうか、物好きな!)
弦三は、むかむかとして、脚の痛みも忘れ壊れた窓の中へ、もぐり込んだ。
入って来た人の気配《けはい》に気付いたものか、死んでいると思った青年が、白い眼を、すこし開いた。
そして呻《うめ》くように言った。
「君、あれを聞きましたか。アメリカの飛行機のり奴《め》、飛行機の上から、あの曲を放送しているのですよ。無論、故意にJOAKと同じ波長でネ。しゃれた真似をするメリケン野郎……」
弦三は、それを聞くと、ムクムクッと起きあがって、諸手《もろて》で受信機を頭上高くもちあげると、
「やッ!」
と壁ぎわに、叩きつけた。
「うぬ、空襲葬送曲まで、米国のお世話になるものか、いまに見ておれ、この空襲葬送曲は、熨斗《のし》をつけて、立派に米国へ、返してやるから……」
死にかかっている青年にも、それが通じたものか、燃えのこった蝋燭の灯の蔭で、満足そうに、ニッと笑った。
爆撃下《ばくげきか》の帝都《ていと》
呻《うめ》きつつ、喚きつつ、どッどッと流れてゆく真黒の、大群衆だった。
彼等は、大きなベルトの上に乗りでもしたように、同じ速さで、どッどッと、流れてゆくのだった。
「やっと、新宿《しんじゅく》だッ」
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