に、鼻粘膜《びねんまく》を、擽《くすぐ》った。
(塩化《えんか》ピクリンか!)
 東山少尉は、腰をひねると、防毒マスクをとりあげた。
「催涙瓦斯《さいるいガス》だぞオ、催涙瓦斯だぞオ!」
 瓦斯|警戒哨《けいかいしょう》が、大声に、呶鳴《どな》っていた。
 東山少尉は、そのとき、何を思ったのか、ツと、二足、三足前方にすすんだ。
「どうも、おかしいぞ」
 前方の、放送局の松林《まつばやし》あたりに、可也《かなり》夥《おびただ》しい人数が移動している様子だった。演習慣れした少尉の耳には、その雑然たる靴音が、ハッキリと判った。
 どこの部隊だろうか?
 司令部が寄越した援兵《えんぺい》にしては、無警告だし、地方の師団から救援隊が来るとしても、おかしい。
 軍隊ではないのかも知れない。
 少尉は、背後に向って、携帯用の懐中電灯を、斜《なな》め十字《じゅうじ》に振った。それは下士官を呼ぶ信号だった。
 コトコト[#「 コトコト」は底本では「コトコト」]と足音《あしおと》がして、軍曹の肩章《けんしょう》のある下士官が、少尉の側にピタリと身体を寄せた。
「吉奈軍曹《よしなぐんそう》であります」
 軍曹は、マスクの中で、できる限りの声を張りあげたのが、少尉の耳に、やっと入った。
「おう、吉奈軍曹。至急偵察を命ずる。放送局裏に、不可解《ふかかい》の部隊が集結しているぞ。突入《とつにゅう》誰何《すいか》しろ。友軍だったら、短銃《ピストル》を二発射て。怪しい奴だったら、三発うて。避難民だったら、四発だ。時節がら、怪しい奴かも知れぬから、臨機応変、細心に観察して、判ったら直ぐ知らせろッ」
 軍曹は、わかったと見えて、首を上下に振った。
「では、行け」
 軍曹は、右手に、短銃《ピストル》を握ると、放送局舎目懸けて、驀進《ばくしん》した。
 少尉は、直ちに、別の信号をして、兵員の急速集結を命じた。部署に最少限度の兵員を残して、あと二十名ばかりのものが集ってきた。彼等は、取敢えず、三門の機関銃を敷《し》いた。
「少尉殿」耳の側で、伝令兵が叫んだ。
 少尉は首を振って、応答した。
「警備司令部との連絡電話が切断したであります」
「なにッ」少尉は、駭《おどろ》いて、伝令兵の腕を握った。「無線電話はどうかッ」
「無線電話にも、司令部の応答が、無いであります」
「無線も駄目か。はあて――」
 途端に、前方で、銃声が響いた。
「パ、パ、パン!」
 うむ、さては、怪しい者だ。
 三発の短銃《ピストル》の音に、堤《つつみ》をきられたように、向うの方に、銃声が起った。バラバラと、弾丸が飛んでくる!
 丁度《ちょうど》、そのとき、異様な響をたてて、一台の飛行機が、火焔に包まれ、錐揉《きりも》みになって、落下してきた。焼けのこった機翼の尖端《せんたん》に、チラリと、真赤な日の丸が見えた、と思った。次の瞬間には、囂然《ごうぜん》たる音響をあげて放送局裏の松林の真上に、機首をつっこんだ。パチパチと、物凄い音がして、松林が、ドッと燃えあがった。急に、あたりは、赤々と照し出された。そこは、吉奈軍曹が、突入したあたりだった。
 見よ、局舎のまわりには、四五百名近い人間が集っていた。彼等の半分は、陸軍々人だった。のこりの半分は、背広だの、学生服だの、雑然たる服装をしていた。顔は、マスクで見えない。悉《ことごと》くの人間が、防毒マスクをしていた。軍隊と市民との混成隊とでも云いたいものであった。
(なぜだ。なぜだッ)
 東山少尉は、不思議な軍隊を向うに廻して不審をうった。彼等は、こちらの陣地を認めて、小銃を乱射し、手榴弾《しゅりゅうだん》を投げつけた。小銃はとどいたが、手榴弾は、ずっと遠方で炸裂《さくれつ》した。
 軍隊を狙撃《そげき》する軍隊なのである。そのような、不可解な軍隊を向うに廻して、東山少尉の部下は、敵慨心《てきがいしん》を起す前に、悒鬱《ゆううつ》にならないわけにゆかなかった。
 向うの集団は、二手に別れた。一隊は、局舎の周囲を、グルグル廻っては、しきりに発砲していた。他の一隊は、地に匍《は》い局舎を掩護物《えんごぶつ》にして、ジリジリと、こっちを向いて進撃してきた。
 少尉の部下は、イライラしてきたが、少尉は、まだ発砲の号令を出さなかった。
(たしかに、おかしい。あの兵士等の、鉄冑《てつかぶと》の被《かぶ》り様《よう》は怪《あやし》い。姿勢も、よろしくない。うン、これは、真正《ほんと》の軍隊ではない。それならば、よオしッ)
「撃《う》ち方《かた》用意!」東山少尉は、マスクを取ると、大声に叫んだのだった。「敵は陸軍々人の服装をしているが、不逞群衆《ふていぐんしゅう》の仮装《かそう》であると認める。十分に撃ちまくれ、判ったな。――左翼、中央の両隊の目標は、敵の散開線《さんかいせん
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