。用意は、よいであります」
中尉は軽く肯《うなず》くと云った。「よいか、ぬかるな」
「おい佐島一等兵。電話で司令部へ、報告せい。空襲警報用意よし!」
「はいッ」一等兵は身を翻《ひるがえ》して、天幕《テント》のところへ帰った。「空襲警報用意よし」
天幕の中の通信員は、送話器の中に、歯切れのよい声を送りこんだ。
「愛宕山警報所。空襲警報用意よゥし!」
やがて、一分、二分。
電話機のある天幕から、大サイレンの間までには、ズラリと兵員が立並んで、いずれも及び腰で、報告が電話機の上に来れば、直ちに警報が出せるように身構えた。
そして、突如――
「空襲警報ゥ!」
電話機を掴《つか》んでいる兵士が、大声で怒鳴った。
「空襲警報!」
「サイレン鳴らせィ!」
命令の声が、消えるか消えない内に、
「ンぶうッ――う、う、う」
と愛宕山《あたごやま》の大サイレンが鳴り出した。雄壮《ゆうそう》というよりも、悲壮な音響だった。
東京市内の電灯という電灯は、パッと消えて、全市は暗黒になった。
「呀《あ》ッ」
覚悟をしていた人でさえ、驚きの声をあげた。
「十五秒して、又電灯が点いたら、空襲警報なんだよ」
小学生たちは、学校の先生に教わったとおりに、電灯が消えたので、面白がっていた。
電灯が消えると、俄《にわ》かに聴力が鋭敏になったのだった。いままで聞こえなかった半鐘《はんしょう》の音が、サイレンに交って、遠近《えんきん》いろいろの音色をあげていた。
「ジャーン、ジャンジャンジャン」
「ボーン、ボンボンボン」
下町の木工場の、貧弱なサイレンも、負けず劣らず、喚《わめ》きつづけていた。
「呀ッ、電灯が点いたッ」
誰の目も、電灯の光を見上げて、嬉しそうに笑った。ほんとに光りは、人間にとって、心強いものだった。
下町の表通りを、バラバラと駈け出す一隊があった。
「火を消す用意をして下さい。不用な灯は消して下さい。空襲警報ですよォ」
竿竹と、メガフォンと、赤い布を捲きつけた懐中電灯とで固めた一隊が、町の辻々を、練りまわった。
今、帝都は、敵機の襲撃をうける!
浜松の戦闘機隊は、どうしたであろうか。
追浜《おっぱま》の海軍航空隊は、既に上空めがけて、舞いあがったであろうか。
立川の飛行聯隊の用意は、整《ととの》ったであろうか。
東京市民が、醵金《きょきん》をし合って献納《けんのう》した十五機から成る東京愛国飛行隊は、どうしているであろうか。
嵐の前の静寂《せいじゃく》!
帝都の夜空は、漆《うるし》のように、いよいよ黝々《くろぐろ》と更《ふ》けていった。
空襲葬送曲《くうしゅうそうそうきょく》
非常管制の警報が出たのは、それから三十分ほど、後《あと》のことだった。
一等速く、民家に達したのは、電灯による警報だった。
「おい、お妻」と鼻緒問屋の主人、長造は暗闇の中で云った。
「お前、今、時計を見なかったか」
「いいえ、暗くなったんで、判りませんわ」
「非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな」
「お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっと点《つ》くのですよ」
「感心なもんだな、覚えているなんて――」
三十秒経ったのか、電灯がパッとついた。
「今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ」
「呀《あ》ッ、消えましたわ」
お妻の声には恐怖の音調が交っていた。
間もなく、電灯は再び点いた。
「ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ」
「誰か、表の電灯を消して下さい」
「もう消しましたよオ」真暗な店の方から、返事があった。
「お父さん。ここの電灯も消して、ちょうだい。あたし、怖いわ」長女のみどりが、奥の間へやってきた。
「ここは見えやしないよ」
「だって、戸の隙間《すきま》から、見えちまうじゃないの」
「じゃ、こうしとこうかな。手拭《てぬぐい》を、姐《ねえ》さん被《かむ》りにさせて」
「ああ、それで、いいわ」あとから附いて来た紅子《べにこ》が云った。
「家の中を皆、真暗にしてしまうんですもの。暗くちゃ、怖いわ」
そこへ、店の方から、ドカドカと上《あが》りこんで来た者があった。
「お父さん」
「おお、弦三か。よく帰って来た」
「この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ」
「うん」長造は感慨探《かんがいふか》そうに云った。「あまりいいことじゃない。それにマスクは一つじゃなア」
「お父|様《さん》」弦三は、電灯の下へ、大きな包みをドサリと置いた。
「いよいよ、皆の分を作ってきましたよ。姉さんはいますか、姉さん」
「あい、此処《ここ》よ」後に下っていたみどりが顔を出した。
「ここに、鉛筆で使用法を書
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