を持っていたが、云い出すのが恐ろしくて、互に押黙っていた。
国民の不安が、もう抑《おさ》えきれない程、絶頂《ぜっちょう》にのぼりつめたと思われた其の日の夜、東京では、JOAKから、実に意外な臨時ニュースの放送があった。
警戒管制《けいかいかんせい》出《い》ず!
JOAKのある愛宕山《あたごやま》は、東京の中心、丸の内を、僅かに南に寄ったところに在《あ》った。それは山というほど高いものではない。下から石段を登ってゆくと、ザッと百段目ぐらいを数える頃、山頂《さんちょう》の愛宕神社の前に着くのだった。毬栗《まりぐり》を半分に切って、ソッと東京市の上に置いたような此の愛宕山の頂《いただ》きは平《たい》らかで、公園ベンチがあちこちに並び、そこからは、東京全市はもちろんのこと、お天気のよい日には肉眼ででも、房総半島《ぼうそうはんとう》がハッキリ見えた。「五分間十銭」の木札をぶらさげた貸し望遠鏡には、いつもなら東京見物の衆が、おかしな腰付で噛《かじ》りついていた筈だった。しかし、今日ばかりは、そんな長閑《のどか》な光景は見えず、貸し望遠鏡はどこかへ姿を隠し、その位置には代りあって、精巧を誇る測高器《そっこうき》と対空射撃算定器《たいくうしゃげきさんていき》とが、がっしりした三脚《さんきゃく》の上に支《ささ》えられ、それからやや距《へだ》ったところには、巨大な高射砲が金網《かなあみ》を被《かぶ》り、夕暗が次第に濃くなってくる帝都の空の一角を睨《にら》んでいた。
「少尉殿」突然叫んだのは算定器の照準手《しょうじゅんしゅ》である飯坂《いいさか》上等兵だった。
「友軍の機影観測が困難になりましたッ」
「うむ」
高射砲隊長の東山少尉は、頤紐《あごひも》のかかった面《おもて》をあげて、丁度《ちょうど》その時刻、帝都防護飛行隊が巡邏《じゅんら》している筈の品川上空を注視したが、その方向には、いたずらに霧とも煙ともわからないものが濃く垂《た》れ籠《こ》めていて、無論飛行機は見えなかった。
「それでは、観測やめィ」
照準手と、測合手《そくごうしゅ》とは、対眼鏡《アイピース》から、始めて眼を離した。網膜《もうまく》の底には、赤く〇《ゼロ》と書かれた目盛が、いつまでも消えなかった。少尉はスタスタと、社殿《しゃでん》の脇《わき》へ入って行った。その背後《うしろ》に大喇叭《おおラッパ》を束《たば》にして、天に向けたような聴音器が据えつけられていたのだった。夜に入ると、この聴音器だけが、飛行機の在処《ありか》を云いあてた。
「J、O、A、K!」
神社の隣りに聳《そび》え立った、JOAKの空中線鉄塔のあたりから、アナウンサーの声が大きく響いた。
弾薬函《だんやくばこ》の傍《そば》に跼《うずくま》っている兵士の群は、声のする鉄塔を見上げた。鉄塔を五メートルばかり登ったところに、真黒な函みたいなものがあるのが、薄明りのうちに認められたが、あれが、声の出てくる高声器なんだろうと思った。
本物の杉内アナウンサーは、鉄塔の向うに見える厳《おごそ》かなJOAKビルの中にいた。スタディオの、黄色い灯《ひ》洩《も》れる窓を通して、彼氏《かれし》の短く苅りこんだ頭が見えていた。
「唯今から午後六時の子供さんのお時間でございますが……」
と云ったは云ったが、流石《さすが》に老練なアナウンサーも、これから放送しようとする事項の重大性を考えて、そこでゴクリと唾《つばき》を嚥《の》みこんだ。
「……エエ、当放送局は、時局切迫のため、陸軍省令第五七〇九号によりましてこの時間から、東京警備司令部の手に移ることとなりました。随《したが》って既に発表しましたプログラムは、すべて中止となりましたので、あしからず御承知を願います。それでは唯今より、東京警備司令官|別府《べっぷ》大将の布告《ふこく》がございます」
杉内アナウンサーは、マイクロフォンの前で、恭々《うやうや》しく一礼をして下った。すると反対の側から、年の頃は六十路《むそじ》を二つ三つ越えたと思われる半白の口髭《くちひげ》と頤髯《あごひげ》、凛々《りり》しい将軍が、六尺豊かの長身を、静かにマイクロフォンに近づけた。
「東京及び東京地方に居住する帝国臣民諸君」将軍の声は泰山《たいざん》の如くに落付いていた。「本職は東京警備司令官の職権をもって広く諸君に一|言《げん》せんとするものである。吾が帝国は、曩《さき》は北米《ほくべい》合衆国に対して宣戦を布告し、吾が陸海軍は東に於て太平洋に戦機を窺《うかが》い、西に於ては上海《シャンハイ》、比律賓《フィッリピン》を攻略中であるが、従来の日清《にっしん》、日露《にちろ》、日独《にちどく》、或いは近く昭和六七年に勃発せる満洲、上海事変に於ては、戦闘区域は外国内に限られ、吾が日本領土
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