清二はそれを思い出して興奮せずには居られなかった。
 帝国海軍の潜水艦伊号一〇一は、この日から、加州沿岸を去る二十キロメートルの海底の、兼《か》ねて、計画をしてあった屈竟《くっきょう》の隠れ場所に、ゴロンと横たわったまま、昼といわず夜といわず、睡眠病息者のように眠りつづけていた。しかし艦内の一角では、極超短波《きょくちょうたんぱ》による秘密無線電話機が、鋭敏な触角《しょっかく》を二十四時間、休みなしに働かせて、本国からの指令を、ひたすら憧《あこが》れていた。
 丁度その頃、東洋方面には、有史以来の険悪な空気が、渦を巻いていた。
 わが日本の上海駐在《シャンハイちゅうざい》の総領事惨殺事件と、そのあとに続いた在留邦人の復讐事件とは、一《ひ》と先《ま》ずお互の官憲の手によって鎮まった。だがそれは無論、表面だけのことであった。東京と、華府《かふ》との二ヶ所では、政府当局と相手国の全権大使とが、頻繁《ひんぱん》に往復した。外交文書には、次第に薄気味のわるい言葉が織《お》りこまれて行った。お互《たがい》の国の名誉と権益《けんえき》のために、往復文書には、強い意識が盛られていった。
 その外交戦の直ぐ裏では、日米両国の戦備が、驚くべき速度と量と形とに於て、進められて行った。鉄工場には、官設といわず、民間会社と云わず、三千度の溶鉱炉が真赤に燃え、ニューマティック・ハンマーが灼鉄《しゃくてつ》を叩き続け、旋盤《せんばん》が叫喚《きょうかん》に似た音をたてて同じ形の軍器部分品を削《けず》りあげて行った。
 東京の街角には、たった一日の間に、千|本針《ぼんばり》の腹巻を通行の女人達《にょにんたち》に求める出征兵士の家族が群《むらが》りでて、街の形を、変えてしまった。だが其の腹巻の多くは、間に合わなかったのだった。それは通行の女人達が、不熱心なわけでは無く、東京に属する師団の動員が、余りに速かったのである。
 或る者は、交番の前に、青物の車を置いたまま、印袢纏《しるしばんてん》で、営門《えいもん》をくぐった。また或る者は、手術のメスを看護婦の手に渡したまま、聯隊|目懸《めが》けて、飛び出して行った。
 事態は、市民の思っている以上に切迫していた。品川駅頭《しながわえきとう》を出発して東海道を下っていった出征兵員一行の消息は、いつの間にか、全く不明になってしまった。
 其のあとについて、品川駅を通過してゆく東北地方の出征軍隊の乗った列車は一々数えきれなかった。夜間ばかりでは運搬しきれないものと見え、真昼間にも陸続《りくぞく》として下《くだ》って行った。東北地方の兵営が、空《から》になるのではないかと、心配になるほどあとからあとへと、出征列車が繰《く》りこんできたのだった。
 帝都の辻々に貼り出される号外のビラは、次第に大きさを加え、鮮血《せんけつ》で描いたような○○が、二百万の市民を、悉《ことごと》く緊張の天頂《てっぺん》へ、攫《さら》いあげた。ラジオの高声器は臨時ニュースまた臨時ニュースで、早朝から真夜中まで、ワンワンと喚《わめ》き散《ち》らしていた。
 そして遂に、其の日は来た。
 昭和十×年五月一日、日米の国交は断絶した。
 両国の大使館員は、駐在国の首都を退京した。
 同時に、厳《おごそ》かな宣戦の詔勅《しょうちょく》が下った。
 東京市民は、血走った眼を、宣戦布告の号外の上に、幾度となく走らせた。彼等は、同じ文句を読みかえして行く度毎に、まるで別な新しい号外を読むような気がした。
「太平洋戦争だ!」
「いよいよ日米開戦だ!」
 宣戦布告があると、新聞やラジオのニュースの内容は一変したのだった。
「米国《べいこく》の太平洋艦隊は、今や大西洋艦隊の廻航を待ちて之《これ》に合せんとし、其《そ》の主力艦は既に布哇《ハワイ》パール湾[#「パール湾」は底本では「ハール湾」]に集結を了《りょう》したりとの報あり!」
「布哇《ハワイ》の日系米人、騒がず」
「墨西哥《メキシコ》の首都附近に、叛軍《はんぐん》迫《せま》る、一両日中に、クーデター起るものと予測さる」
「英《えい》、仏《ふつ》両国は中立を宣言す」
「注目すべきレニングラードの反政府運動」
「中華民国も一《ひ》と先《ま》ず中立宣言か」
「上海《シャンハイ》に市街戦起る、○○師団、先ず火蓋を切る。米国空軍は杭州《こうしゅう》地方に集結」
 東京市民は、我が軍に関するニュースの少いのに不満であった、それは恐らく、全国民の不満であるに違いなかった。ことに、太平洋方面に戦機を覘《うかが》っている筈の、帝国海軍の行動について、一行のニュースもないのを物足りなく思った。
 どこからともなく、流言《りゅうげん》が伝わり出した。東京市民の顔には不安の色が、次第にありありと現われて来た。誰しも、同じような云いたいこと
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