内には敵の一兵《いっぺい》も侵入することを許さなかったのである。然《しか》るに、今次の日米戦役《にちべいせんえき》に於ては、全く事情を異にして戦闘区域は国外に限定を許されず、吾が植民地は勿論、東京大阪等の内地まで、戦闘区域とするの已《や》むなきに立至った。これは諸君に於て既に御承知の如く、主として航空機による攻撃力が増大したる結果である。当局は、敵国航空機の日本本土侵略に対し、充分なる準備と重大なる覚悟とを有するものであるが、元来航空機の侵入を百パーセントに阻止《そし》することは、理窟上不可能と証明せられていることであるからして、敵機の完全なる撃退は保証しがたい。故《ゆえ》に本職は、各人が此辺の事情を理解し、指揮者の命に随《したが》い、官民一体となって此の重大事に善処せんことを望むものである。吾が国の家屋は火災に弱く、敵機の爆撃によって相当の被害あるべく、又非常時に際して種々の流言蜚語《りゅうげんひご》あらんも、国民は始終冷静に適宜《てきぎ》の行動をとることによりて其の被害程度を縮少し、空襲|怖《おそ》るるに足らずとの自信を持ち得るものと確信する。徒《いたず》らなる狼狽《ろうばい》は、国難をして遂に収拾《しゅうしゅう》すべからざる状態に導くものである。皇国《こうこく》の興廃《こうはい》は諸君の双肩《そうけん》に懸《かか》れり、それ奮闘努力せよ。右布告す。昭和十×年五月十日。東京警備司令官陸軍大将別府|九州造《くすぞう》」
JOAKが聞える五十キロの範囲の住民たちは、この布告を聴くと、老いたるも若きも、共にサッと顔色を変えた。
夕闇深い帝都の空の下には、異常なる光景が出現した。
ラジオの高声器のある戸毎家毎には、近隣の者や、見も知らぬ通行人までが、飛びこんで来て、警備司令部の放送がこれから如何になりゆくかについて、耳を聳《そばだ》てるのだった。
街を疾駆《しっく》する洪水のような円タクの流れもハタと止り、運転手も客も、自動車を路傍《ろぼう》に捨てたまま、先を争うて高声器の前に突進した。
電車も、軌道の上に停車したまま、明るい車内には人ッ子一人残っていなかった。
高声器の近所で躁《さわ》ぐもの、喚《わめ》く者は、忽《たちま》ち群衆の手で、のされてしまった。
トーキーをやっている映画館の或るものでは、即時映画を中止し、ラジオをトーキーの器械へ繋《つな》ぎ、応急放送を観客に送って、非常に感謝された。
歌舞伎《かぶき》劇場では、演劇をやめ、あの大きな舞台の上に、道具方が自作した貧弱な受信機を、支配人が平身低頭《へいしんていとう》して借用したのを持ち出した。血の気の多い観客さえ、石のように黙りこくってその聴きづらい高声器の音に耳を澄したのだった。
「別府閣下の布告は終りました」杉内アナウンサーは、幾分上り気味だった。「次は塩原参謀より東京警報があります」
「東京警備一般警報第一号、発声者は東京警備参謀塩原大尉!」キビキビした参謀の声が聴えた。
帝都二百万の住民は、この一語も、聞き洩《もら》すまいと、呼吸《いき》を詰めた。
「信ずべき筋によれば」参謀の声は、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》たるものがあった。「比律賓《フィリッピン》第四飛行聯隊の主力は、オロンガボオ軍港を脱出し、中華民国|浙江省《せっこうしょう》西湖《せいこ》に集結せるものの如く、而《しか》して此後《このご》の行動は、数日後を期して、大阪|若《もしく》は東京方面を襲撃せんとするものと信ぜらる。因《ちなみ》に、該主力《がいしゅりょく》は、百十人乗の爆撃飛行艇三台、攻撃機十五台、偵察機三十台、戦闘機三十台及び空中給油機六台より編成せられ、根拠地|西湖《せいこ》と大阪との距離は千五百キロ、東京との距離は二千キロである。終り」
参謀が発表した驚くべき空中襲撃の警報は、帝都全市民にとって、僧侶《そうりょ》がわたす引導《いんどう》にひとしかった。高声器の前に鼻を並べた誰も彼もは、お互に顔を見合わせ、同じように大きな溜息《ためいき》をついたのだった。
ああ、敵機の空中襲撃!
いよいよ帝都の上空に、米国空軍の姿が現れるのだ。
あの碧《あお》い眼玉をした赤鬼たちが、吾等の愛すべき家族を覘《ねら》って爆弾を投じ、焼夷弾《しょういだん》で灼きひろげ、毒瓦斯《どくガス》で呼吸《いき》の根を停めようとするのだ。
「いよいよ来るねッ」丸の内の会社から退けて、郊外中野へ帰ってゆく若い勤人《つとめにん》が、一緒に高声器の前に駆けこんだ僚友《りょうゆう》に呼びかけた。
「うん」その友人は、鼻の頭に、膏汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませていた。「警備司令部なんてのが有るのは、始めて知ったよ。驚いたネ」
「一般警報だというが、敵機の在処《ありか》や、台数など、莫迦《ばか》に詳《くわ》しすぎる
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