ょう》さでもって、内懐《ふところ》から、黄色い手袋を出して嵌《は》め、そしてどこに隠してあったのか、マスクをひょいと被ると、例の封筒を指先で摘《つま》みあげて、端の方を、鋏《はさみ》で、静かに截《き》り開《ひら》いた。封筒の中からは、四つに折畳《おりたた》んだレターペーパーと、百円紙幣とが出て来た。紙幣の方は、そのまま、封筒にかえし、彼は手紙の方をとりあげて、おそるおそる開いた。
(ちえッ。白紙《しらがみ》でやがる!)
 彼は、何にも文字の書いてない白紙を卓子《テーブル》の上に拡げると、衣嚢《ポケット》の中から、青い液体の入った小さい壜を取出した。その栓《せん》をぬいて紙面に、ふりかけようとした。丁度《ちょうど》、そのときだった。
「ピューッ、ピューッ」
 と、窓外に、口笛が鳴った。
 青年は、ひどく周章《あわ》てて、席を立とうとしたが、卓上の、手紙などを、懐中に入れようか、どうしようかと、躊躇《ちゅうちょ》した。が結局、手紙も、金も、小壜まで、そのままにして、カーテンの外へ、駈け出していった。
 それと入れちがいに、大きな坊主頭が、ニュッと、カーテンの中に入ってきた。彼は素早く、封筒の中へ、フッと息を入れ百円紙幣を抜き出すと、封筒だけは、元の卓子《テーブル》の上へ抛《ほう》り出した。ところが、運わるくそれが、小壜に触れて、パタリと倒してしまった。青い液体が、ドクドクと白紙の上に流れ出した。怪漢は、ひどく狼狽《ろうばい》して、壜を指先に摘むと、起した。白紙の上には、青い液体が拡がって、沸々《ふつふつ》と白い泡を立てていた。彼は、半帛《ハンカチ》で、それを拭《ぬぐ》おうとして、紙面に顔を近づけた瞬間、ウムと呻《うめ》くと、われとわが咽喉を掻《か》きむしるようにして、其儘《そのまま》、肥《こ》えた身体を、卓子の上に、パタリと伏せ、やがて、ダラリと動かなくなった。
 もしも、男爵と呼ばれた青年が、マスクも懸けないで、それと同じことをやったなら、彼もこの坊主頭の男と、同じ運命に落入る筈だった。それは、手紙の発信人「狼《ウルフ》」という人物の、目論《もくろ》んだ恐ろしい計画に外ならなかった。
 物音に、駭《おどろ》いて駈けつけた人々は、カーテンを開いてみて、二度|吃驚《びっくり》をした。
「呀《あ》ッ、これはビール樽だ」
「なんだか、おかしいぞ。危いから、近よっちゃいけない」
 人々は、ビール樽の死体を遠巻きにして、ワッワッと、騒いでいた。
「男爵が、居ないぞ」
「真弓も、どこかへ行った」
 その騒ぎの中に、チリチリと、電話が懸かって来た。
「それどころじゃございません」支配人が泣《な》かんばかりの声を出して、電話口へ訴えていた。「ビール樽が、殺されちまったんです。ええ、男爵とは、違います。ビール樽の野郎ですよ。どうか直ぐ来て下さい。私は、大将の命令がなけりゃ、店を畳《たた》みたいのですよ。どうかして下さいな、『狼《ウルフ》』の親分!」
 その頃、男爵とウェイトレス真弓とは、御成街道《おなりかいどう》を自動車で走っていた。二人は、こんな会話をしていた。
「では、狼《ウルフ》の大将は、今朝がた、イーグルへやって来たというのだな」
「そうですわ。そこへ、紅子《べにこ》さんという、浅草の不良モガが、一人でやって来たのよ。狼《ウルフ》は、紅子さんと、手を取って、帰って行きましたわよ」
「紅子が、ねえ――」
「ビール樽は、そのころから、お店の周囲をうろついてたんだわ。あいつ、百円紙幣に釣られて、あんたの身代《みがわ》りになったのね」
「では、真弓。これから、故郷《くに》へ帰ったら、二三年は、東京へ顔を出しちゃ、危いぞ」
「もう、お降りになるの。いまお別れしたら、何時《いつ》お目に懸かれるか、判らないわネ」
「お互《たがい》に、どうなるか、判らない人生だ。帰ったら、お父さんや、子供を、大事にしろ」
「これでも、あたし、古い型《かた》の女よ。帰ったら、いいママになりますわ」
「それがいい」男爵は、運転手の方へ向いて停車を命じた。
「では、所長」と運転手は、降り立った男爵に声をかけた。「たしかに、御婦人を、茨城県《いばらぎけん》[#ルビの「いばらぎけん」はママ]磯崎《いそざき》まで、送りとどけて参ります」
「どうか、頼んだぞ」
「それじゃ、サヨナラ。あたしの、男爵さま――では無かった、帆村荘六《ほむらそうろく》様」
「御健在《ごけんざい》に――」
 青年は、小さくなってゆく、自動車の方に手を振った。「男爵」というのは、無論、綽名《あだな》であって、G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の日本派遣隊の集合所と睨《にら》まれるキャバレ・イーグルに於ける不良仲間《ふりょうなかま》としての呼び名だった。そこで、彼は巧みに、狼《ウルフ》を隊長とする彼《か》の一団に近
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