い、皆の衆。お前ら駄目じゃねえか」と怒鳴《どな》った。
 その四五人のうちの一人が、グッとこっちを睨《にら》みかえしたのを見ると、彼は、周章《あわ》てて入口の扉のうちに、姿を隠した。その頓間《とんま》男も、どこかで、見た男だった。
 それも道理だった。頤髯男は、ここの研究所長の戸波俊二《となみしゅんじ》博士。大八車のように大きい男は、山名山太郎《やまなやまたろう》といって、印半纏《しるしばんてん》のよく似合う、郊外の鍛冶屋《かじや》さんで、この二人は、帝都爆撃の夜、新宿の暗がりの中で知合いになり、助け助けられつつ、この駿河台の研究所まで辿《たど》りついたのが縁《えん》で、唯今では、鍛冶屋の山さん、変じて、博士の用心棒となり、無頓著《むとんちゃく》な博士の身辺護衛《しんぺんごえい》の任にあたっているのだった。戸波博士は、いま軍部の依頼によって、或る秘密研究に従事している国宝のように尊《とうと》い学者だった。さてこそ、門前には、便衣《べんい》に身体を包んだ憲兵隊《けんぺいたい》が、それとなく、厳重な警戒をしている有様であった。
 戸波研究所を立出でた青年は、私服《しふく》憲兵との間に、話がついていたのでもあろうか、別に咎《とが》められる風もなかった。彼は、往来を、急ぐでもなく、ブラブラと歩き出した。大通りに出てみると、避難民や、軍隊が、土煙をあげて、はげしく往来していた。
 青年は、駿河台下《するがだいした》の方へ、下って行った。そこは、学生の多い神田の、目貫《めぬき》の場所であって、書店や、ミルクホールや、喫茶店や、カフェや、麻雀《マージャン》倶楽部や、活動館や、雑貨店や、ダンスホールが、軒に軒を重ねあわせて並んでいた。流石《さすが》に、今日は、店を閉めているところが、少くはなかったが、中には、東京人特有の度胸太《どきょうふと》さで、半ば犠牲的に、避難民のために、便宜《べんぎ》をはかっている家も、見うけられた。
 キャバレ・イーグルも、そのうちの一軒だった。
 このキャバレ・イーグルという家は、カフェとレビュー館との、中間みたいな家だった。お酒を呑んだり、チキンの皿を抱えながら、美しい踊り子の舞踊が見られたり、そうかと思うと、お客たちが、てんでに席を立って、ダンスをしたりすることが出来た。随《したが》って、ここの客は、若い婦人と、三十過ぎの男とが多かった。そして、どちらかというと、不良がかった色彩を帯びていることも、否《いな》めなかったのである。
 彼《か》の青年は、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく、イーグルの入口をくぐった。
 支配人が、大袈裟《おおげさ》に、さも駭《おどろ》いた恰好をすると、急いで近よった。
「まあ、ようこそ。男爵《だんしゃく》さま。――」
 支配人は、恭々《うやうや》しく手を出して、青年の帽子を受けとった。
「誰か、来てないか」
「どなたも、見えませんです。なにしろ、この騒動の中ですからナ」
「手紙も、来てないかしら」
「手紙といえば、真弓《まゆみ》が、なにかビール樽《だる》から、ことづかったようでしたが……」
「そうか。真弓を呼べ」
 支配人は、奥の方を向いて、
「真弓さアーん」
 と声をかけた。
「はーイ」
 と返事がして、派手な訪問着を着たウェイトレスがパタパタと駈けてきた。
「まあ、男爵。よく来たわネ」
「てめぃ、ビール樽《だる》から、なんか、ことづかったろうが」男爵と呼ばれる青年は、姿に似ぬ下等《かとう》な言葉を、はいた。
「ええ、ことづかってよ。こっちへ、いらっしゃいよォ」
 真弓は、広間の片隅の、函《ボックス》・卓子《テーブル》へ、男爵を引っぱって行った。
「今日は、ゆっくりして行ってネ。あたしも是非、あんたに、相談したいことがあるのよ」
「それよか、手紙を、早く出せったら」
「まあ、ひどい人。あたしのことより、あんなビール樽の手紙がいいなんて、あたし、失礼しちゃうわ」そういって、彼女は、帯の間から真白い四角な封筒をとりだした。
「ほう、ビール樽からの手紙じゃなくて、これは『狼《ウルフ》』からのだな」
 狼《ウルフ》といい、ビール樽というところを見ると、男爵というのも、大分怪しいことだった。青年のキリリとした伊達《だて》姿が「男爵」という通称を与えたのかも、知れなかった。
「おい、真弓。手紙を読む間、あっちへいっとれ」男爵は、真弓の頬っぺたを、指の先で、ちょいと、つついた。
「うん――」真弓は、だしぬけに、男爵の首ッ玉に噛《かじ》りつくと、呀《あ》ッという間に、チュッと音をさせて、接吻《せっぷん》を盗んだ。
「莫迦《ばか》――」男爵は、満更《まんざら》でもない様子で、ニヤリと笑って、真弓の逃げてゆくあとを、見送った。
 それから男爵は、急いで、入口のカーテンを引いた。次に彼は、驚くべき敏捷《びんし
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