を左へ曲げ、隅田川《すみだがわ》に沿《そ》って、本所《ほんじょ》浅草《あさくさ》の上空へやれ。高度は、もっと下げられぬか」そう云ったのは、警備司令部付の、塩原参謀《しおばらさんぼう》だった。
「はいッ、では、もう二百メートル、下降《かこう》いたしましょう」
浅川曹長は、左手を頭上に高くあげると、僚機の注目を促《うなが》し、それから腕を左水平《ひだりすいへい》に倒すと、手首を二三度振った。途端《とたん》に、彼の乗っている司令機は、下《さ》げ舵《かじ》をとって、静かに機首を左へ廻したのだった。あとに随《したが》う二機も、グッと旋回《せんかい》を始めたらしく、プロペラが重苦しい呻《うな》り声をあげているのが、聞えた。
「これは、ますます、ひどいな」そう云ったのは、側の湯河原《ゆがわら》中佐だった。
「敵の計画では、焼夷弾《しょういだん》と毒瓦斯弾《どくガスだん》とで一気に、帝都を撲滅《ぼくめつ》するつもりだったらしいですな。爆弾は、割に尠《すくな》い。弾痕《だんこん》と被害程度とを比較して、判ります」塩原参謀は、指先で、コツコツと窓硝子をつついた。
「なにしろ、帝都の市民は、今日になって、防空問題に、目醒《めざ》めたことだろうが、こんなになっては、もう既に遅い。彼等は、飛行機の飛んでくるお祭りさわぎの防空演習は、大好きだったが、防毒演習とか、避難演習のように、地味《じみ》なことは、嫌いだった。満洲事変や上海《シャンハイ》事変の、真唯中《まっただなか》こそ、高射砲や、愛国号の献金をしたが、半歳《はんとし》、一年と、月日が経つに従って、興奮から醒《さ》めてきた。帝都の防空施設は、不徹底のままに、抛《ほう》り出されてあった。雨が降れば、人間は傘をさして、濡れるのを防ぐ。が、帝都には、爆弾の雨が降ってこようというのに、これを遮《さえぎ》る雨具《あまぐ》一つ、備わっていないのだ……」湯河原中佐は、慨然《がいぜん》として、腕を拱《こまね》いた。
「そう云えば、防空演習にしても、遺憾《いかん》な点が多かったですね。東京の小さい区だけの、防空演習だって、なかなか、やるというところまで漕《こ》ぎつけるのに骨が折れた。市川《いちかわ》とか、桐生《きりゅう》とか、前橋とかいう小さい町までもが、苦しい町費《ちょうひ》をさいて、一と通りは、防空演習をやっているのに、大東京という帝都が、纏《まとま》った防空演習を、唯の一度もやっていなかったということは、何という遺憾、何という恥辱《ちじょく》だったでしょう」
「貴君《きくん》の云うとおりだ。もしも、帝都として防空演習を充分にやって置いたら、昨夜《ゆうべ》のような空襲をうけても、あれほどの大事にはならなかったろう。火災も、もっと少かったろう。徒《いたずら》に、圧《お》し合《あ》いへし合い、郊外へ逃げ出すこともなかったろうから、人命《じんめい》の犠牲も、ずっと少かったろう。流言蜚語《りゅうげんひご》に迷わされて浅間《あさま》しい行動をする人も、真逆《まさか》、あれほど多くはなかったろう」
湯河原中佐と、塩原参謀は、偵察機上から、思わず悲憤《ひふん》の泪《なみだ》を流したことだった。
「浅草《あさくさ》の上空です」浅川曹長が、伝声管から注意した。
「うん、浅川曹長。お前の家は、浅草にあると云ったな」中佐が、不図《ふと》気がついて云った。
「そうであります」曹長の声は、すこし慄《ふる》えを帯びていた。「雷門《かみなりもん》附近の、花川戸《はなかわど》というところであります」
「どうだ、お前の家の辺《あたり》は、見えるかね」
中佐は、胸にかけていたプリズム双眼鏡を外《はず》して、曹長の方へ、さし出した。
「はッ」曹長は、一礼してそれを受けとると、機上から上半身を乗りだして、遥かの下界を向いて双眼鏡のピントを合《あわ》せた。
「見えないか」
「判りましたッ」
「どうだ」
「焼土《やけつち》ばかりです。附近に、家らしいものは、一軒も見えません」
「戦争じゃからナ」中佐は、気の毒に耐えぬといった調子で、今から一と月程前までは、社会局の名事務員だった浅川岸一を慰《なぐさ》めたのだった。
「浅川は、司令部の御命令で、昨夜は、立川飛行聯隊の宿舎に閉じこめられ、切歯扼腕《せっしやくわん》していました。この上は、早く敵機に、めぐり逢いたいであります」
小さいけれど、彼の懐しい裏長屋は、影すら見えなかった。そこには、用務員をしている父|亀之助《かめのすけ》と、年老いた祖母と、優しい母と、ダンサーをしている直ぐ下の妹|舟子《ふなこ》と、次の妹の笛子《ふえこ》と、中学生の弟|波二《なみじ》とが、居た筈だった。彼等は、憎むべき敵機の爆弾に、蹴散らされてしまったのだった。今頃は、どこにどうしていることやら。生か、それとも死か。彼は、折角《
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