ッぽい、調子|外《はず》れの声が、きいた。
「そうだナ――」頤髯男は、どッと、ぶつかってくる避難民の一人を、ウンと突き戻すと、クルリと後を向いて、夜光時計の文字盤を眼鏡にスレスレに近づけた。
「ああ、午後九時だよ」
「九時ですかい」印袢纏《しるしばんてん》は、間のぬけた声をだした。
「今夜は、莫迦《ばか》に、夜が永いネ」
「ほほう」髯は、暗闇の中で、眼を丸くしたのだった。
「君は、ずいぶん、落付いてるナ」
「旦那は、どこへ逃げなさるんで……」
「僕かい?」髯は、湖のような静かな調子で云った。
「僕は、これから、研究室へ、出勤するんだ」
「冗談じゃありませんぜ、旦那」印袢纏が呆れたような声をだした。「夜更《よふけ》の九時に、出勤てのは、ありませんよ。それに、旦那の行くところはどちらです」
「神田《かんだ》の駿河台《するがだい》だよ」
「へへえ、すると旦那は、お医者さまかネ」印袢纏は、駿河台に病院の多いのを思い出したのだった。
「ちがうよ」と、あっさり云った。「君は、どこへ逃げるのかい」
「あっし[#「あっし」に傍点]のことかネ。あっし[#「あっし」に傍点]は、逃げたりなんぞ、するものか。今夜は閑暇《ひま》になったもんだから、一つ市中へ出てみようと思うんで」
「ナニ、閑暇《ひま》だから、市中へ出る――」髯は、髯をつまんで、苦笑した。「それにしては、すこし、空中も、地上も騒がしいぞ」
 その言葉を、裏書するように、どーンと又一つ、火柱が立った。赤坂の方らしい。
「あっし[#「あっし」に傍点]は、平気ですよ」印袢纏が言った。「ねえ旦那、アメリカの飛行機が、攻めて来たかは知らねえが、東京の人間たちのこの慌《あわ》て加減は、どうです。震災のときにも、ちょいと騒いだが、今度は、それに輪を十本も掛けたようなものだ。青年団が何です。消防隊が何です。交通整理も、在郷軍人会も、お巡りさんも、なっちゃいない。第一、あっし[#「あっし」に傍点]達の献納《けんのう》した愛国号の働きも、一向無いと見えて、この爆弾の落っこちることァ、どうです。防護隊というのがあるということだが、死人同様だァな、畜生」
 髯は無言で、場所を出てゆこうとしたが、生憎《あいにく》、又ピカリと窓硝子が光ったので、印袢纏《しるしばんてん》に発見されてしまった。
「旦那、行くんなら、あっし[#「あっし」に傍点]も、お伴します
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