すます悪いという話だよ」
「それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の伊号《いごう》一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ」
「だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ」
そこへ廊下をバタバタ駈けてくる跫音《あしおと》が聞こえてきた。ヒョックリ真ンまるい顔を出したのは中学生の素六だった。
「お父様も、兄ちゃんも、あっちへ来て下さいって、御膳《おぜん》ができたからサ」
「そうか、じゃお父様、参りましょう」黄一郎は、腰を起して、父親を促《うなが》した。
「うン、――よっこらしょい」と長造は煙管《きせる》をポンと一つ、長火鉢の角《かど》で叩くと、立ち上った。「今日は下町をぐるッと廻って大変だったよ。品物が動かんね、お前の方の店はどうだい」
「駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。寧《むし》ろ甲府《こうふ》方面へ出ます。この鼻緒商売《はなおしょうばい》も、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね」
「第一、この辺《へん》に問屋が多すぎるよ」
長造は頤《あご》を左右《さゆう》にしゃくって、表通に鼻緒問屋《はなおどんや》の多いのを指摘《してき》した。この浅草の大河端《おおかわばた》の一角を占める花川戸《はなかわど》は、古くから下駄《げた》の鼻緒と爪革《つまかわ》の手工業を以て、日本全国に知られていた。殊《こと》に、東京好みの粋《いき》な鼻緒は断然《だんぜん》この花川戸でできるものに限られていた。鼻緒の下請負《したうけおい》は、同じ区内の今戸《いまど》とか橋場《はしば》あたりの隣町《となりまち》の、夥《おびただ》しい家庭工場で、芯《しん》を固めたり、麻縄《あさなわ》を通したり、その上から色彩さまざまの鞘《さや》になった鼻緒を被《かぶ》せたり、それが出来ると、真中から二つに折って前鼻緒《まえばなお》で締《し》め、それを百本ずつ集めて、前鼻緒を束《たば》ね、垂れ下った毛のような麻をとるために、火をつけて鳥渡《ちょっと》焼く――そうしたものを、問屋に持ちこむのだった。問屋には、数人の職人が居て、品物を選《え》り別《わ》けたり、特別のものを作ったりして、その上に商標《しょうひょう》のついた帯をつけ、重い束《たば》を天井に一杯釣り上げ、別に箱に収《おさ》めて積みあげるのだった。
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