だ。
「さて残念! あいにくと銀がないわい……」
辻村氏は顔を真赤にして、毛のうすい頭からボッボッと湯気をたてていた。
「あッはッはッ。これァ愉快だッ」
学生団がドッと笑いだすと、いままで取り乱していた連中も、我に返ったように、おとなしくなった。そして、ほっとした色と一緒に元気が浮かびあがってきた。防毒面をとりもせず、座席の片隅に小さくなっていた旗男少年も、落ちつきと元気を取り戻した一人だった。そして、将棋さし二人男のほうをつくづくみていたが、急に飛びあがった。
「ああ、鍛冶屋《かじや》のおじさんだ、兼吉《かねきち》君のお父さんだッ」
それは旗男の東京の家の崖下《がけした》に、小さな工場を持っている鍛冶屋の大将鉄造さんだった。
旗男は「おじさんおじさん」と叫ぶと、いきなり、鉄造のガッチリした胸にとびついた。
「うわーッ」
と、さすがに後備軍曹の肩書を持つ鍛冶屋の大将も、不意うちに、防毒面をかぶった変な生物にとびつかれ胆《きも》をつぶした。膝の上にのっていた将棋盤も、ポーンと宙にはねあがった。いまや王手飛車とりの角を盤面に打ちこもうとしたエビス顔の辻村氏の頭の上に、将棋の駒がバラバラと降ってきた。おどろくまいことか、彼氏の金切声――。
「うわーッ、爆弾にやられたッ……」
毒瓦斯《どくガス》地帯
旗男は、思いがけなく親友のお父さんに会って、それこそ地獄で仏さまに会った思《おもい》だった。鉄造は横に座席をあけてくれた。
「どうも、歩《ふ》が一枚足りない……」
辻村氏は、腰掛の下にはいこんで、なくなった駒をさがしまわっていた。
「ああ、うちの赤ン坊が、手にもって、しゃぶっていましたよ」
そういって、女が、さっきの騒をまるで忘れてしまったような顔つきで、将棋の駒を返してよこした。車内はすっかり落ちつきを取りかえしていた。呑気な将棋が、救いの神だったのだ。
野尻湖《のじりこ》近くの田口《たぐち》駅をすぎた頃、客車のしきりの扉が開いて、車掌がきんちょうした顔をして入ってきた。
「エエ、皆さんに申しあげます……」
車内の一同は、すわ、なにごとが起ったかと、車掌の顔を見つめた。
「エエ、ただ今非常管制がとかれて、警戒管制に入りましたが、警報によりますと、これから先に、だいぶ毒瓦斯を撒かれたところがあるようでございます。殊《こと》に一時間程のちに通過いたします長野市附近の如《ごと》きは、窒素性のホスゲン瓦斯を落されたということでありました。そういうわけで、この列車も、毒瓦斯が車内に入ってくるのを防ぎますため、車窓も換気窓も、それから出入口の扉も絶対にお開けにならぬように願います。もちろん鎧戸《よろいど》の外には硝子戸《ガラスど》を閉めていただきます。それから扉の隙間などには、眼張《めばり》をしていただきます。眼張の材料が十分でございませんので、一つ皆さんで御相談の上、適当にやっていただきます」
これを聞いて、乗客たちは又色を失った。いよいよたいへんなことになった。この列車は毒瓦斯の中を通ることになったのだ。
「車掌さん、防毒面は貸してくれないのですか」
学生団から不安にみちた声がした。
「どうも配給がありませんので……」
「オイ車掌君。金はいくらでも出す。至急、防毒面を買ってくれたまえ」
一人の紳士があたり憚《はばか》らない声をだした。
「お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます」
「じゃ君に百円あげる。拝《おが》むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ」
紳士は泣きだしそうな顔で紙入《かみいれ》をだした。
「お断りします」
車掌はキッパリいって、次の車室へドンドン歩いていった。
「おお、そこの子供くん。君は可愛《かわい》い子だ」
と、紳士は旗男のところへヨロヨロと近づいた。
「二百円あげるから、その防毒面を売ってくれたまえ。私は肺が悪い、病人だ。ね、売ってくれるだろう。三百円でもいい」
旗男は困ってしまった。すると隣に腰をかけていた鍛冶屋の大将が、旗男をかばうようにしたかと思うと、食いつきそうな顔で紳士をにらみつけた。
「この馬鹿野郎!」
その破鐘《われがね》のような声に吹きとばされたか、がりがり亡者の紳士は腰掛の間に尻餅《しりもち》をついた。
それに構わず、鍛冶屋さんはすっと立ちあがった。
「さあ皆さん。毒瓦斯を防ぐとなると、お互さまに知らぬ顔をしていられません。みんなで力を合わせて、この室を早く瓦斯避難室にしなければなりません。私は東京品川区の五反田《ごたんだ》では防護団の班長をしています。後備軍曹で、職業は鍛冶屋です……」
飛んだところまで口をすべらせるので、辻村氏があきれて、下から鍛冶屋の大将の服をひっぱった。
「……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか」
「委《
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