て下さい。この方角は駅の前へ出ます。……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」
群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っている。それだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた。
旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは春日山《かすがやま》駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だった。ちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた。
旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。
――東京はどうだろう? 病身の両親や、幼い弟妹《ていまい》などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。
疾走《しっそう》する暗黒列車
空襲をうけたといって、すぐ交通機関が停《とま》るようでは、ちょうど、手術にかかったとたん[#「とたん」に傍点]にお医者さまが卒倒したのと同じように、たいへんなことになる。
空襲下でも、交通機関は、できるだけ平常どおり動かさねばならぬ――と、鉄道大臣は、大きな覚悟をいいあらわした。
それは全くむつかしい仕事のうちでも、ことにむつかしい仕事であるのに、鉄道省は、見事にそれをやってのけた。……黒白《あやめ》もわかぬ暗黒の夜に、蛍火《ほたるび》のような信号灯一つをたよりに、列車でもなんでも、ふだんと変わらぬ速さと変わらぬ時間で運転するなんて、神さまでも、ちょっとやれるとおっしゃらないだろう。
――これを実際にやってのけたのだから、日本の鉄道の人たちは天晴《あっぱれ》なものだった。踏切や町かどの交通整理を引受けて、働いた青年団員も、実に偉かった。
「おどろきましたねェ、まったく……」
と、辻村という商人体の乗客が口を開いた。列車の内はすべて電灯に紫布《むらさきぎれ》の被《おおい》がかけられていた。
「国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな」
「いや全く、そのとおりでさあ」
と職工らしいガッチリした身体の男があいづちをうって答えた。
「われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ。大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ」
「われわれにも、チャンとありますかなァ。わたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……」
といって頭をかいたが、
「どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、鎧戸《よろいど》をおろし、まっくらにして走るんですかね」
「いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ」
「警戒管制になるのはいつでしょうな」
「いまに車掌さんが知らせに来ますよ。それまでは、すこし蒸暑《むしあつ》いが、我慢しましょうや」
「我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方。暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか」
「えッ、将棋!」
親方は太い眉《まゆ》をビクンと動かした。
「この空襲警報の中で将棋ですか。いやおどろいた。あんたも弱い日本人じゃない。おそれいったる度胸。これァ面白い。さしあたり用もないから、じゃ生死の境に一番さしましょうか。これァ面白い。はッはッはッ」
辻村商人氏が、トランクから小さい将棋盤を出してきた。トランクを向かいあった二人の膝の上に渡し、その上に盤をおいた。そして駒《こま》をパチパチ並べはじめた。そのときまでの、この車内の光景ときたら、婦人や子供といわず、堂々たる若者たちまでが、本物の爆弾投下のものすごさにおびえて、すっかり度を失っていたのだ。ある大学生はブルブル慄《ふる》えながらナムアミダブツを唱え、三人づれの洋装をした女たちは恐怖のあまり、あらぬことを口走っていた。列車の窓から外へ飛び出そうとする母親を子供たちが引留めようと一生けんめいになっていた。まるで動物園の狐のように車内をあっちへいったり、こっちへいったり、ウロウロしている会社員らしい男もあった。
「ああ呆《あき》れた。あそこを見なよ。この騒《さわぎ》のなかに呑気《のんき》な顔をして将棋をさしている奴がいるぜ。ホラ、あそこんとこを見てみろ……」
登山がえりらしい学生の一団の中から、頓狂《とんきょう》な声がひびいた。――「将棋をさしている奴がいる」
その声に、室内の人々はあッとおどろいて、学生の指さす方角を覗きこん
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