ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ。
「あッ、姉さん、あぶないッ!」
 と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の上に崩れおちてきた。――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。


   避難民


 どこをどう逃げてきたか、よくわからなかった。とにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道《あぜみち》をまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出《みいだ》した。
(なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう?)
 そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを掠《かす》めたとき、彼はとつぜん[#「とつぜん」に傍点]気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていた。それから先、どうして逃げたかわからない。
 どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい。
(ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかったせい[#「せい」に傍点]だ。敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?)
 旗男は心配と口惜《くや》しさで、腸《はらわた》がちぎれるように感じた。
 あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない。僅《わず》かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしい。だが非常管制はそのまま続けられているらしい。
「元気を出さなきゃあ……」
 と、旗男は自分自身にいいきかせた。そして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。
 畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた。
(これでやっと歩きよくなる――)
 と思って、彼は悦《よろこ》びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。
(オヤ、どうしたんだろう?)
 旗男はこわごわ傍《そば》へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった。誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で咽喉《のど》のあたりを掴《つか》んでいた。
「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を撒《ま》きちらしていったんだ」
 旗男も、姉から防毒面を貰《もら》わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう。
 それにしても、なんという憎むべき敵!
 ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん夥《おびただ》しい避難者の列にぶつかってしまった。狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から挟《はさ》みつけられて、キュウキュウいっていた。それも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった。
「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」
「さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……」
「うわーッ」
 蜂《はち》の巣《す》をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない。群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。
「あわてちゃいかん」
「流言にまどうな。落着けッ!」
 声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを鎮《しず》める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していった。ああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか?
 旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった。
「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩い
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