たいは、申分《もうしぶん》のない非常管制ぶりだった。直江津の全町は、まったく闇の中に沈んでいた。旗男は、この町の防空訓練のゆきとどいていることに感心していた。
そのとき、けたたましく半鐘《はんしょう》が鳴りだした。
「オヤッ……」
と思って、ふりかえってみると、火事だ。近くの国分寺の方角だ。
「オヤオヤ、変だぞ」
火事は一箇所と思いのほか、町の南にあたる安国寺の方角にも起っている。そこへもう一つ、東の方に現れた――黒井の窒素《ちっそ》会社の方角だ。――爆弾もなにも降ってこないのに、一時に三箇所の火事だなんて、どうもおかしい! と、思っていると、少年が二人ほど自転車にのって通りかかった。彼等は声を合わせてどなってゆく……。
「火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい。一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう」
「ナニ、S国のスパイ」
スパイは、だにのようにしつこく、この直江津の町に食いついているのだった。なぜ、この小さい港町が、スパイにねらわれるのだろう。同時に三箇所から起った火事というのも不思議だったが、やがて町の人には、そのわけがわかるときが来た。それは突然、音もなく町の上に落下してきた爆弾の雨!
「焼夷弾だッ……」
と気がついたときには、既に遅かった。
いわゆる爆弾とよばれる破甲弾や地雷弾とちがって、あまり大きな破裂音をたてない。だが投下弾は、民家の屋根を貫き、天井をうちぬいて畳の上や机の横に転がり、そこではじめてシュウシュウと、目もくらむような眩しい光をあげて燃えだすのだ。
そしてアレヨアレヨという間に畳も柱もボーッと燃えだした。たちまち室内は一面の火の海となり、なおも隣家の方へ燃えひろがっていった。
まったく手の下しようもない。みるみる火勢はものすごさを加えていって、往来へとびだしてみると、もう屋根の上へ真赤な炎が、メラメラと顔をだしていた。早く逃げなければならないが、この強い火の海にとりまかれてはどちらへ逃げてよいかわからない。まったく気のつきようが遅かった。三十秒以内に、落ちた焼夷弾のまわりの畳や襖《ふすま》や蒲団《ふとん》などの燃えやすい家具に、ドンドン水をかけてビショビショに濡《ぬ》らせばよかった。すると焼夷弾がクラクラに燃えさかり、はげしい火の子を吹きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。
焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった。
行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた。
「姉さん、逃げましょう――」
旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた。
「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければね。もう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん。早くこれをかぶんなさい」
さすがに軍人の家庭は用意がよかった。
旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった。
「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」
「ええ……」
旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ。早く帰らないと申分《もうしわけ》ない。
そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。
「さァ、姉さん、はやく……」
姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりた。そのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。
廂《ひさし》からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が濛々《もうもう》と渦をまいて追ってくる。……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。
「おお……」
旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した。――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった。姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。
真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていた。すさまじい火勢が、家
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