射砲の陣地では、一斉に砲弾と火薬とが填《こ》められた。照準手は石のように照準望遠鏡に固着している。
 間近かの照空灯は、聴音隊からの刻々の報告によって、まだ灯火《あかり》の点かない真暗な鏡面をジリジリ細かく旋廻している。点減手はスウィッチの把手《ハンドル》を握りしめている。もう耳にも敵機の轟々たる爆音がよく聞きとれた。
「射ち方始めッ」
 警笛がピリピリと鳴る。眩むような、青白色の太い火柱がサッと空中に立った。照空灯が点火したのだ。三条の光芒は、行儀よく上空でぶっちがった。
 光芒の中に、白く拭きとったような丁字形が見えた。三つ! 果して敵の重爆撃機の編隊だ。見なれないその異様な恰好!
 一秒、二秒、三秒……
 高射砲は、息詰るような沈黙を見せている。射撃指揮手は、把手をグルグルと左右に廻して目盛を読もうと焦っている。遂に敵機の方向も速力も出た。数字を怒鳴る。
 一、二、三。
「ウン」
 どどどーッ、どーン。
 血のように真紅な火焔が、立ち並ぶ砲口からパッと出た。トタンに、照空隊はスーッと消えて、あたりは真の暗《やみ》にかえる。だが眼の底には、さっきの太い光の柱が焼けついていて消えない。
 陣地の隊員はひとしく、何事かを予期して真暗な上空を睨み、瞳孔《ひとみ》を一杯に開いた。
 ぱーッ。
 紅と黄との花傘を、空中に拡げたように、空一面が思いがけない光と色とに塗られた。その光のうちに、弾かれたように飛び散る敵の司令機があった。二番機も、あおられたように一揺れすると、白い両翼がバラバラに離れ散った。
 そのあとに恐ろしい空気の震動が押し寄せたかと思うと、俄《にわ》かに天地はグラグラとゆらいだ。砲弾の作裂音だ。
 敵機は黄色い煙りをあげ、火焔に包まれながら、錐もみ状態になって墜ちてくる。
「敵は十五台の爆撃機よりなり、三隊に編成せられたり。高射砲隊の沈着勇敢なる戦闘を期待す」――防空司令官から、激励の辞を交《ま》ぜたメッセージが来た。
 立川の戦闘機隊が、有利な戦闘位置を獲得するまでは、高射砲隊の独《ひと》り舞台だった。
「あれは、何だッ」
 三河島の方向が、ポッと明るくなった。ゴヤゴヤと真白な光りものが、水でも流したように左右に拡がった。それが忽《たちま》ち空中高く奔騰《ほんとう》する火焔に変った。焼夷弾が落下したのだった。
 どどーン。ぐわーン。ぐわーン。
 地鳴りとも、爆音ともハッキリわからない音響が、だんだん激しく鳴りだす。照空灯は、クルリと右へ旋廻すると、また急に左へパッと動いた。そして心臓の鼓動のように忙しく点いたり消えたりした。
 阻塞《そさい》気球が、敵機をひっかけようとヌーッと浮んでいるのが、チラリと見えた。


   毒瓦斯と闘う市民の群


 ――昭和×年十一月、帝都の新興街、新宿附近にて――

「純ちゃん。まだ云って来ないネ」
 少年団の天幕《テント》の中に、消灯用の竿竹を握っている少年が云った。
「もう来る時分なんだが……」と相手の少年は云った。
「でも来ない方がいいよ、そうじゃないか太郎ちゃん」
「警戒管制が出てから、もう一日以上経ったね」
「うん。警戒管制が出て、不用な電灯を消して歩いたのは昨夜《ゆうべ》の九時だったからネ」
「さっき、空襲警報がいよいよ本当に来たときは、米国空軍なんか何だいと思ったよ」
「あいつらは太平洋方面から航空母艦でやって来るわけだから、千葉県を通って来るんだネ」
「そうサ。今頃は、小笠原の辺で砲火を交えている日米の主力艦隊の運命が決っている頃だろうが、きっと陸奥《むつ》や長門《ながと》は、ウエストバージニアやコロラドを滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にやっつけているだろうと思うよ」
「軍艦はやっつけても飛行機だけは、航空母艦から飛び出して、隙間を通ってやってくるんだから、いやになっちまうな」
「しかし、もう平気だよ。この前、爆弾で家《うち》を焼かれちまった下町の人なんか、家がなくなって、これでサバサバしたといっていたぜ」
「そうかい」
「あの辺へ行ってみると、直径が十メートルから二十メートルもの大穴がポカポカあいているんだぜ。五十キロ以上一トンまでの爆弾がおっこって作った穴だってさ。下町の人は、その穴の中へ、横の方へまた穴を掘ってサ、その中に住んでいるんだよ。僕、暢気《のんき》なのに呆《あき》れちゃった」
「ふふン、そうかい。一番小さい爆弾で、どのくらい強いんだい」
「まア十二キロぐらいのものでも、落ちれば五メートル位の直径の穴をあけ、十メートル以内の窓|硝子《ガラス》を壊して、そして木造家屋なんか滅茶滅茶に壊してしまうんだぞ」
「それじゃ、一トン爆弾なんて、大変だネ」
「うん、大変だ。ほら、浅草の八階もある万屋《よろずや》呉服店のビルディングに落ちたのが一トン爆弾だよ。地下室まで抜けちまって、四階から上なんざ影も形もなくなり、その下の方は飴のように曲ってしまって骨ばかりなんだ。そりゃひどいものだよ」
 そんな話をしているとき、電灯がパッと消えた。
「あっ、消えた」
「三十秒消えて、また点いて消えて、それからまた点くといよいよ非常管制だよ」
 二人の少年は、真暗なところに立って、夜光の腕時計を眺めていた。そのときヒョーヒョーと汽笛は鳴りはじめ、ブーッとサイレンは鳴りだし、警鐘はガンガン、ガン、ガンと、異様な打ち方を始めた。
「いよいよ非常管制だッ」
「さア、大急ぎで、電灯を消しに行こう」
 そのとき、天幕の中では、電灯がまた点いた。
「これは消さなくていいね」
「黒い布《きれ》で見えないようにしてあるから、大丈夫だよ」
 少年達は、附近の家の窓から、消し忘れた電灯の灯影《ほかげ》が洩れてはいないか。ヘッドライトに紫か黒かの布を被《かぶ》せ忘れている自動車はないか、探しに出かけた。
「非常管制警報が出ましたよオ」
「皆さん。灯火《あかり》を洩れないようにして下さアーい」
 この灯火管制がうまく行われているか、いないかによって、敵の航空軍が東京を発見する難易が定《き》まる。真暗になっていると、その上を通っても、畠地《はたち》だか山林だか市街だかわからないのである。
 新宿の大通りには、刻々に群衆が増して行った。皆、他区から押しよせて来た避難民たちだった。
「お婆さん、どこから来たんです」
 在郷軍人が提灯の薄あかりに、風呂敷包を背負ってウロウロしている老人を見つけた。
「あたしゃ、中野から来たんですよ。甲州の山の中へ逃げようと思うんですけれど、汽車は新宿からでないと出ないというので歩いて来たんですよ。しかしこの、おっそろしい群衆《ひと》では、あたしのような年寄はとても乗れませんですよ。どうしたら、ようございましょうね」
「じゃ、お婆さん。慌てて逃げても駄目だから、この駅の地下室へ入っていなさい。今に毒瓦斯でも来ると、地べたで死なねばなりませんからネ」
「毒瓦斯? ほんとうにあの毒瓦斯というのが来るのですか、ヤレヤレ」
 婆さんは闇の中へ、可哀そうな姿を消した。
「君、瓦斯マスクを売っているとこ、知りませんか。教えてくれれば、五百円を今、あなたに進呈しますが」
 金持らしい紳士が、在郷軍人によびかけた。
「配給品以外にはないようです。お気の毒さま」
「じゃその配給品を是非売って下さい。このとおり両手を合わせて頼みます。僕はいいのだ。しかし妻が可哀そうだ。肺が元々悪いのですから、同情してやって下さい。ここに三千円ある。これで売って下さい。君、助けて下さい」
 在郷軍人はそれには目も呉れず、さっきの婆さんと同じように、避難所の位置を教えてやった。
 ぐわーン、ぐわーン。
「おう、始まったぞ」
 群衆は一せいに立ち止って、爆弾の落ちたらしい方角に、耳を澄ませた。
「丸の内方面らしい」
 弾かれたように群衆はどっと雪崩《なだれ》をうって、爆弾の落ちたとは反対の方に走りだした。その時だった。
 どどど、どどーン、ぐわーン、うーン。
 ばーン、ばばばーン。
 釣瓶《つるべ》うちに、百|雷《らい》の崩れおちるような物凄い大音響がした。パッと丸の内方面が明るくなったと思うと、毒々しい火焔がメラメラと立ちのぼり始めた。米国空軍の爆撃隊が、その得意とする爆弾の連続投下を決行したのだ。
 がーン、がーン。
 それにつづいて、爆裂しそこなったような、やや調子はずれの爆音が、向うの街角にした。なんだか、ばかに白い煙のようなものがモヤモヤと立ち昇ったようであった。
 近所に消防自動車がいたらしく、手廻しのサイレンが、うウうウうウうウうーウと鳴り出した。
 ピリピリピリピリ。
 振笛が響く。
「ど、ど、毒瓦斯がアーッ」
「毒瓦斯が来たぞオ」
 獣のような怒号が、あっちでも、こっちでも起った。死にもの狂いで、逃げだす群衆の混乱さ加減は、形容のしようもない程ますますひどくなってきた。
「慌てちゃいかんいかん。平常《ふだん》の国民の訓練を役立てるのは今日のためだった」
「武蔵野館の地下室へ逃げて下さーアい」
「風下へ行っちゃ駄目ですよオ、戸山ヶ原《とやまがはら》の方へ避難しなさアーい」
 青年団員は、声を嗄《か》らして、沈着な警報をつづけた。
「おお、青年団がいるなッ。毒瓦斯はホスゲンだ、皆、マスクを被れッ」
 予備将校らしいのが、蜻蛉《とんぼ》の化物のような防毒マスクを腰から外《はず》しながら、勇敢なる団員たちに注意を発した。
 その向うの角を入ると、屋根の低い町家が並び立っていた。この狭い路地には、逃げ遅れた避難民が、あちらでもこちらでも、仰向けにひっくりかえっていた。皆がいいあわしたように咽喉へ両手をかけて、もがき死んでいる。その側には、立派な猟犬シェパードが、同じような向きに斃《たお》れている。赤ン坊を背負った若い内儀《かみ》さんが、裾をはだけて向うから駈けてきた。そのあとから小さい黒い影が一つ、追ってくる。
「母アちゃん、母アちゃん」
 若い女は、もう気が狂っているのでもあろうか、愛児の叫び声も耳に入らないようだ。必死にとり縋《すが》られて、どう[#「どう」に傍点]とその場に倒れると、もうホスゲンが肺一ぱいに拡がったのか、立ち上る力もないようだ。哀れ死に行こうとする親子三名!
 そのとき前の商家から、主人らしい男が、瓦斯マスクをかけて飛び出してきた。この様子を内から見ていたものと見え、傍によって、何事かを喚くと、そのまま起ち上って向うの辻に消えた。
 するとその辻から担架隊がやって来た。例の男が連れて来たのだ。担架隊員はマスクをかけているが、服装からいうと、女学生らしい。手際も鮮かに、担架の上に三人を収容すると、瓦斯避難所の方へ駈け出した。親子の命はやっと救われたようだ。
 発見者の男は、また家の中へ引っかえした。しかし彼は唯一人で土間に頑張っている。襖《ふすま》を開けて室に入ろうとはしない。それもその筈で、その室の中には、彼以外の全家族が入っているのだ。皆、マスクがない。その室はすっかり密閉され、隙間隙間には目ばりを施し、その内側へはカーテンを二重に張り廻し、天井は天井で消毒剤が一面に撒いてあるのだった。マスクのない代りに、一時|凌《しの》ぎの瓦斯避難室を作ったわけだ。マスクの主人は、とりもなおさず一家の警戒係をつとめているわけだった。彼の側にはさらし粉が入ったバケツが三つも並んでいた。イペリットのような皮膚に対して糜爛性《びらんせい》の毒瓦斯が襲来したときには、その上に撒いて消毒するためだった。
 表通りを消防自動車の走ってゆく騒然たる響きがする。消防隊員は、死物狂いで、敵の爆弾のために発火した場所を素早く消し廻っているのだった。理解と沈着と果断とが、紙のように燃えやすい市街を、灰燼《かいじん》から辛うじて救っているのだった。


   最後の勝利者


 ――昭和×年十一月、焼土の上にて――

「よくまア、めぐりあえて、あたし……あたし……」
「うん、うん。お前もよく、無事で……」
 灰になった家の前で二人は抱きあっていた。そこは嘗《かつ》て、彼等が平和な家庭生活を営んでいたその地点だった。

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