じゃその配給品を是非売って下さい。このとおり両手を合わせて頼みます。僕はいいのだ。しかし妻が可哀そうだ。肺が元々悪いのですから、同情してやって下さい。ここに三千円ある。これで売って下さい。君、助けて下さい」
在郷軍人はそれには目も呉れず、さっきの婆さんと同じように、避難所の位置を教えてやった。
ぐわーン、ぐわーン。
「おう、始まったぞ」
群衆は一せいに立ち止って、爆弾の落ちたらしい方角に、耳を澄ませた。
「丸の内方面らしい」
弾かれたように群衆はどっと雪崩《なだれ》をうって、爆弾の落ちたとは反対の方に走りだした。その時だった。
どどど、どどーン、ぐわーン、うーン。
ばーン、ばばばーン。
釣瓶《つるべ》うちに、百|雷《らい》の崩れおちるような物凄い大音響がした。パッと丸の内方面が明るくなったと思うと、毒々しい火焔がメラメラと立ちのぼり始めた。米国空軍の爆撃隊が、その得意とする爆弾の連続投下を決行したのだ。
がーン、がーン。
それにつづいて、爆裂しそこなったような、やや調子はずれの爆音が、向うの街角にした。なんだか、ばかに白い煙のようなものがモヤモヤと立ち昇ったようであった。
近所に消防自動車がいたらしく、手廻しのサイレンが、うウうウうウうウうーウと鳴り出した。
ピリピリピリピリ。
振笛が響く。
「ど、ど、毒瓦斯がアーッ」
「毒瓦斯が来たぞオ」
獣のような怒号が、あっちでも、こっちでも起った。死にもの狂いで、逃げだす群衆の混乱さ加減は、形容のしようもない程ますますひどくなってきた。
「慌てちゃいかんいかん。平常《ふだん》の国民の訓練を役立てるのは今日のためだった」
「武蔵野館の地下室へ逃げて下さーアい」
「風下へ行っちゃ駄目ですよオ、戸山ヶ原《とやまがはら》の方へ避難しなさアーい」
青年団員は、声を嗄《か》らして、沈着な警報をつづけた。
「おお、青年団がいるなッ。毒瓦斯はホスゲンだ、皆、マスクを被れッ」
予備将校らしいのが、蜻蛉《とんぼ》の化物のような防毒マスクを腰から外《はず》しながら、勇敢なる団員たちに注意を発した。
その向うの角を入ると、屋根の低い町家が並び立っていた。この狭い路地には、逃げ遅れた避難民が、あちらでもこちらでも、仰向けにひっくりかえっていた。皆がいいあわしたように咽喉へ両手をかけて、もがき死んでいる。その側には、立派
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