な猟犬シェパードが、同じような向きに斃《たお》れている。赤ン坊を背負った若い内儀《かみ》さんが、裾をはだけて向うから駈けてきた。そのあとから小さい黒い影が一つ、追ってくる。
「母アちゃん、母アちゃん」
若い女は、もう気が狂っているのでもあろうか、愛児の叫び声も耳に入らないようだ。必死にとり縋《すが》られて、どう[#「どう」に傍点]とその場に倒れると、もうホスゲンが肺一ぱいに拡がったのか、立ち上る力もないようだ。哀れ死に行こうとする親子三名!
そのとき前の商家から、主人らしい男が、瓦斯マスクをかけて飛び出してきた。この様子を内から見ていたものと見え、傍によって、何事かを喚くと、そのまま起ち上って向うの辻に消えた。
するとその辻から担架隊がやって来た。例の男が連れて来たのだ。担架隊員はマスクをかけているが、服装からいうと、女学生らしい。手際も鮮かに、担架の上に三人を収容すると、瓦斯避難所の方へ駈け出した。親子の命はやっと救われたようだ。
発見者の男は、また家の中へ引っかえした。しかし彼は唯一人で土間に頑張っている。襖《ふすま》を開けて室に入ろうとはしない。それもその筈で、その室の中には、彼以外の全家族が入っているのだ。皆、マスクがない。その室はすっかり密閉され、隙間隙間には目ばりを施し、その内側へはカーテンを二重に張り廻し、天井は天井で消毒剤が一面に撒いてあるのだった。マスクのない代りに、一時|凌《しの》ぎの瓦斯避難室を作ったわけだ。マスクの主人は、とりもなおさず一家の警戒係をつとめているわけだった。彼の側にはさらし粉が入ったバケツが三つも並んでいた。イペリットのような皮膚に対して糜爛性《びらんせい》の毒瓦斯が襲来したときには、その上に撒いて消毒するためだった。
表通りを消防自動車の走ってゆく騒然たる響きがする。消防隊員は、死物狂いで、敵の爆弾のために発火した場所を素早く消し廻っているのだった。理解と沈着と果断とが、紙のように燃えやすい市街を、灰燼《かいじん》から辛うじて救っているのだった。
最後の勝利者
――昭和×年十一月、焼土の上にて――
「よくまア、めぐりあえて、あたし……あたし……」
「うん、うん。お前もよく、無事で……」
灰になった家の前で二人は抱きあっていた。そこは嘗《かつ》て、彼等が平和な家庭生活を営んでいたその地点だった。
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