を駆使《くし》している。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破《どくは》しなければならないのであろう。
 それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面《はくめん》の青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使《げんしりょくこうし》につぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷《がんめい》な学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥《けっかん》があるかを判定されればよいのである。
 さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜《きばつ》すぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
 じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
 ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
 すなわち、こうである。
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(一月十日、金属Qを創造《そうぞう》する見込《みこ》みのつきたる日しるす)
[#ここで字下げ終わり]
 とある。
 おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
 金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
 いや、金属というものは、精錬《せいれん》され、あるい
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