ている筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天に駆《か》けたか地に潜《もぐ》ったか、杳《よう》として消息が入らなかった。
だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は多摩川《たまがわ》を眼下《がんか》に見下ろす、某病院の隔離病室《かくりびょうしつ》のベッドの上で、院長の手厚い介抱《かいほう》をうけていた。
「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で癒《なお》ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ駭《おどろ》きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」
「あたくし、誰かに逢いたいのですが」
「イヤ尤《もっと》もです。そのうち誰方《どなた》か見えましょう」
そんな会話が繰返《くりかえ》されているうちに、夜更《よふ》けとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。
「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」
西はただニコニコ笑うだけだった。
「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」
「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分|外《ほか》に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」
「ええ、貴方が仰有《おっしゃ》ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」
「なんです、千鳥さん」
「あたくし、貴下《あなた》に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」
「感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に障《さわ》りますよ。何ごとも暫《しばら》くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも喋《しゃべ》ってはいけません。千鳥さんは当分、生《い》ける屍《しかばね》になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」
「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」
といってニッコリ微笑んだが、攫《さら》われた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。
覆面探偵の危難《きなん》
矢走千鳥《やばせちどり》の誘拐事件《ゆうかいじけん》は、なんの手懸《てがか》りもなく、それから一日過ぎた。
雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂《わし》たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠《かみがく》しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径《はんけい》の中なら、一軒一軒当っていっても多寡《たか》が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六《むつ》ヶ|敷《し》いと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨《にら》んでいて、別途《べっと》から犯人を探しています」
「別途からというと、君の覘《ねら》っている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪《しっそう》した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中《こんみょうにちじゅう》にきっと発見してみせますから」
「彼奴《きゃつ》はもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を縊《くく》らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ給《たま》え」
大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれは盛《さか》んなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断《ことわ》りだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはお誂《あつら》え向《む》きだ。では新選組《しんせんぐみ》を百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙《じゅうりん》したまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕は独《ひと》りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下《あなた》のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの直《す》ぐ明けられるじゃないか」
「
前へ
次へ
全36ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング