》びた。
「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。
「お姉さまが黙っていると、なんだか、独《ひとり》ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?」
「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」
 そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の十八番《おはこ》の「赤い苺の実」の歌だった。
 千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた四肢《しし》を洗いはじめた。
 それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として魂消《たまぎ》るような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、途端《とたん》にガチャーンといって硝子《ガラス》の破《わ》れるような凄《すさま》じい音がして、これにはクラブ館《ハウス》の誰もがハッキリと変事《へんじ》に気がついたのだった。
 いつもは男子絶対|禁制《きんせい》の婦人浴場だったけれど、誰彼《だれかれ》の差別なく、入口から雪崩《なだ》れこんだ。
「どうしましたッ」
 と真先《まっさき》に入ったのは、クラブの事務長の大杉《おおすぎ》だった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。
 彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎ放《ぱな》しになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。
 彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に闖入《ちんにゅう》した。そこには派手な千鳥の衣類が花を蒔《ま》いたように床上《ゆかうえ》に散乱《さんらん》していた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。
「呀《あ》ッ!」
 と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸も纏《まと》わないジュリアが、大理石彫《だいりせきぼ》りの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。
「オイ、退《ど》いた退《ど》いた」
 と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。
 噴泉
前へ 次へ
全71ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング