恐怖について
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#「ジヤン/\」は底本では「シヤン/\」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)アレヨ/\と見てゐる間に
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 恐怖なんて、無くもがなである。
 ――と片づけてしまふ人は、話にならない。恐怖は人間の神經を刺戟することが大きい。ひどい場合は、その場に立ち竦んで心臟痲痺を起したり、或ひは一瞬にして頭髮悉く白くなつて白髮鬼となつたりする。そんな恐怖に自分自身が襲はれることはかなはんが、さういふ恐怖がこの世にあることを聽くのは極めて興味深い。探偵小説が喜ばれる一つの原因は、恐怖といふものが盛られてゐることに在る。
 探偵小説を好む私として、恐怖に魅力を感ずるのは、當然のことであらう。今日は一つ、平生私の感じてゐる恐怖の實例をすこし拾つて、同好の諸君に捧げようと思ふ。
 私は踏切を通ることが恐しい。うちの近所には、番人の居ない踏切があつて、よく子供が轢き殺され、「魔の踏切」などと新聞に書きたてられたものである。あすこへ行き掛ると、列車が風を切つて飛んできて、目と鼻との間を轟々と行き過ぎることがある。列車が通過してから、その光つてゐるレールを跨ぐときに、何とも名状し難い戰慄を覺える。もしも自分の眼が狂つてゐて、列車が見えないのだつたらどうだらう。かう跨いだ拍子に、自分は轢き殺されてゐるのだ。人間といふものは、死んでも、死んだとは氣がつかないものだといふ話を聞いてゐるので、レールを跨ぎ終へたと思つても安心ならない。こんな風に恐怖をもつて踏切を渡るのは、私一人なのだらうか。
 子供を抱いて、ビルデイングの屋上へ上つたことがある。最初はたしか淺草の富士館だと思つた。上つてみると館内の賑かさに比べて、屋上は人一人ゐないのである。下を覗いてみると、通行の人の頭ばかりが見える。舖道までは大變遠い。私は怪物重力に急に引張られる氣配を感じた。そのとき私の腕の中にゐた子供が、無心で私の顏を叩いた。ゴム毬のやうに輕い子供である。私は突然、腕を伸ばして子供をポイと下に墜としてみたい衝動に襲はれた。
「これは、いけない!」
 私は一生懸命に、自分自身を叱つた。しかし怪物重力は私にのりうつつて、(早く子供を下に抛げろ!)と誘ふ。私は慄然として恐怖に襲はれた。もつと遊んでゐたいと子供が泣きだすのも構はず、夢中で梯子段の方へ退却していつた。それ以來、子供を連れてゐるときは、屋上へのぼらないことにしてゐる。
 夢の中に見る恐怖のうち、特に恐ろしい光景が二つある。一つは、空をみてゐると、太陽が急に二つに殖え、アレヨ/\と見てゐる間に三つにも四つにも殖えてゆくのをみるときだ。そんなときの太陽は、いつも光を失つて、まるで朱盆のやうな色をしてゐる。野も山も、いつの間にか丸坊主になり、プス/\と冷い水蒸氣が立ちのぼつてくる。世界の終りだ! 私はビツシヨリ寢汗をかいて、目が醒める。
 もう一つは、フロイド先生の御厄介ものだが、洪水の夢をみるときだ。雨は暗い空からジヤン/\[#「ジヤン/\」は底本では「シヤン/\」]降つてゐる。水だ/\といふ聲がするので、外に出てみる。なるほど水嵩が増してゐる。水面は手のとどきさうな近くにまで上つてゐる。川幅はもう海のやうに廣くなつてゐる。碧い水は轟々と渦を卷いて、下へ流れてゆく。上手をみてみれば[#「みてみれば」は底本では「みてあれば」]、川面が上へ傾いてゐるではないか。これでは水の減る見込は全然ない。不圖私は川下に、家族を殘して來たことを思ひ出す。この水が川下へ落ちてゆくときは、私の家族の全部の溺れ死ぬるときだ、とさう思ふと、私は堪へ難い恐怖に襲はれて、目が醒める。
 何にも音のしないところへゆくと、これがまた恐ろしい。いつだつたか陽春の眞晝、郊外の廣い野原へ出た。蓮華や蒲公英が、たいへん綺麗に咲き擴がつてゐる。私は童心に歸つて、それを一本々々、右手で摘んでは左手に束ねてゆく。花束はだん/\大きくなつていつた。しまひに摘みくたびれて、野原の眞中に立ちどまつた。急に自分の身邊が氣になり出す。耳を澄まして聽くと、サア大變だ。人聲もしなければ、工場の汽笛の音も聞えない。さつきまで吹いてゐた風さへ治まつて、全く音といふものが聞えない。鼓膜があつてもなんにもならない。自分は死んでしまつたのではないか――と、さう思つた瞬間、名状すべからざる戰慄が全身に匍ひのぼつて來た。……後で考へると、あのときは、咳でもするとか、軍歌でも歌へばよかつたのにと思ふ。
 中學生のころ、體操の時間に、高い梁木を渡らされるのが、この上もなく恐ろしかつた。梁木に昇らされる日は、(今日は、やるナ)と時間の始めに直ぐ
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