恐しき通夜
海野十三
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)赭《あか》ら顔《がお》の
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)理学士|星宮羊吾《ほしみやようご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点、字下げの位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)上に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と
×:伏せ字
(例)四ケ月目の××××××だった
−−
1
「一体どうしたというんだろう。大変に遅いじゃないか」
眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、吐きだすように云ったのは、赭《あか》ら顔《がお》の、でっぷり肥った川波船二《かわなみふねじ》大尉だった。窓の外は真暗で、陰鬱《いんうつ》な冷気《れいき》がヒシヒシと、薄い窓|硝子《ガラス》をとおして、忍びこんでくるのが感じられた。
「ほう、もう八時に二分しか無いね。先生、また女の患者にでも掴《つかま》ってんのじゃないか」
腕時計の硝子蓋《ガラスぶた》を、白い実験着の袖《そで》で、ちょいと丸く拭《ぬぐ》いをかけて、そう皮肉ったのは白皙《はくせき》[#底本では「白晢」]長身の理学士|星宮羊吾《ほしみやようご》だった。
これは第三航空試験所の一部、室内には二人の外誰も見えない。だがこの二十坪ばかりの実験室には、所も狭いほど、大きな試験台や、金具《かなぐ》がピカピカ光る複雑な測定器や、頑丈《がんじょう》な鉄の枠《フレイム》に囲《かこま》れた電気機械などが押しならんでいて、四面の鼠色《ねずみいろ》の壁体《へきたい》の上には、妖怪《ようかい》の行列をみるようなグロテスク極《きわ》まる大きい影が、匍《は》いのぼっているのだった。
「キ、キ、キ、キキキッ」
ああ厭《いや》な鳴き声だ。
ホト、ホトと、入口の重い扉《と》の叩かれる音。二人は、顔を見合わせた。
クルクルと把手《ハンドル》の廻る音がして、扉《ドア》がしずかに開く。そのあとから、ソッと顔が出た。
色の浅ぐろい、苦味《にがみ》の走ったキリリとした顔の持ち主――大蘆原《おおあしはら》軍医だった。
室内の先客《せんきゃく》である川波大尉と星宮理学士との二人が、同時にハアーッと溜息《ためいき》をつくと、同時に言葉をかけた。
「遅いじゃないか。どうしたのか」と大尉。
「あまり静かに入ってきたので、また気が変な女でもやってきたのかと思ったよ。ハッハッハッ」と星宮理学士が、作ったような笑い方をした。
「いや、遅くなった。患者《かんじゃ》が来たもんで(と、『患者』という言葉に力を入れて発音しながら)手間がとれちまった。だが、お詫《わ》びの印《しるし》に、お土産を持ってきたよ、ほら……」
そういって大蘆原軍医は、入口のところで何やら笊《ざる》の中に盛りあがった真黒なものを、さしあげてみせた。
「何じゃ、それは……」
「栄螺《さざえ》じゃよ、今日の徹夜実験の記念に、僕がうまく料理をして、御馳走をしてやるからね」大蘆原軍医はそう云ってから、笊《ざる》の中から、一番大きな栄螺を掴《つか》みあげると、二人のいる卓上《テーブル》のところまで持ってきた。磯《いそ》の香《か》がプーンと高く、三人の鼻をうった。すばらしく大きい、獲《と》れたばかりと肯《うなず》かれる新鮮な栄螺だった。
「大きな栄螺じゃな」と大尉は喜んだ。
「軍医殿は、人間のお料理ばかりかと思っていたら、栄螺のお料理も、おたっしゃなんだね」と、星宮理学士が野次《やじ》った。
そこで三人の間にどっと爆笑が起った。だが反響の多いこの室内の爆笑は大変|賑《にぎや》かだったが、一旦それが消えてしまうとなると、反動的に、墓場のような静寂《せいじゃく》がヒシヒシと迫《せま》ってくるのだった。
「キキキッ」
とまた鳴いた。
「可哀想《かわいそう》に、鳴いているな」そう云って大蘆原軍医は、大きい鉄枠《てつわく》のなかを覗《のぞ》きこんだ。そこには大きな針金で拵《こしら》えた籠《かご》があって、よく肥ったモルモットが三十匹ほど、藁床《わらどこ》の上をゴソゴソ匍いまわっていた。
「じゃ、そろそろ実験にとりかかろうじゃないか」と星宮理学士が、腰をあげて、長身をスックリと伸《のば》した。
「よかろう」研究班長の川波大尉は、実験方針書としるしてある仮綴《かりとじ》の本を片手に掴《つか》みあげた。「第一測定は、午後九時カッキリにするとして、まず実験準備の方をテストすることにしよう。大蘆原軍医殿に、モルモットを硝子鐘《ガラスがね》のなかに移して貰おう。それから、星宮君は、すぐ真空喞筒《しんくうポンプ》を回転《まわ》してくれ給え」
航空大尉と、理学士と、軍医との協同実験が始まった。これは川波大尉が担任する研究題目で、航空学に関する動物実験なので、気圧の低くなった硝子鐘《ガラスがね》のなかに棲息《せいそく》するモルモットの能力について、これから一時間毎に、観測をしてゆこうというのだった。大尉は専《もっぱ》ら指揮を、理学士は器械部の目盛を読むことを、そして軍医がモルモットの動物反応を記録するのが役目だった。この三人の学者は、毎時間に、五分間を観測と記録に費《ついや》すと、故障の突発しないかぎり、あとの五十五分間というものを過ごすのに、はなはだ退屈《たいくつ》を感ずるのだった。
2
「この調子で、暁け方まで頑張るのは、ちと辛いね」と大蘆原軍医が、ポケット・ウィスキーの小さいアルミニューム製のコップを、コトリと卓上《テーブル》の上に置きながら云うのだった。
「軍医どのの栄螺《さざえ》料理が無ければ、儂《わし》は五十五分間ずつ寝るつもりだった」と川波大尉が、ポカポカ湯気《ゆげ》のあがっている真黒の栄螺の壺《つぼ》を片手にとりあげ、お汁をチュッと吸ってから、そう云った。
「大蘆原軍医殿は、この栄螺の内臓を珍重《ちんちょう》されるようだが、僕はこんな味のものだとは、今日の今日まで知らなかった」と、星宮理学士は、長い箸《はし》を器用に使って、黄色味がかったプリプリするものを挾《はさ》みあげると、ヒョイと口の中に抛《ほう》りこんで、ムシャムシャと甘味《うま》そうに喰べた。
「そうです、これは一種異様の味がするでしょう。お気に入りましたか星宮君」と軍医は照れたような薄笑いを浮べ、ダンディらしい星宮理学士の口許《くちもと》に射るような視線をおくった。
「そうかね、僕の方の栄螺は、別に変った味もないが、どうれ……」と大尉は、向うから箸をのばして、星宮理学士の壺焼の中を摘もうとした。
「吁《あ》ッ、川波大尉」駭《おどろ》いたように軍医はそれを遮《さえぎ》った。「まだ栄螺は、こっちにもドッサリありますから、こっちのをおとり下さい。なにも、星宮君が陶酔《とうすい》している分をお取りなさらなくても……」
そういって、何故か軍医は、大尉の前に別の壺焼を置いたのだった。
「あ、そうか、これはすまない」と、大尉はちょっと機嫌を損じたが、アルコールの加減で、すぐ又元のような上機嫌に回復した。「こんなに新しいと、いくらでも喰えるね」
「いや、今僕の喰ったやつは、中で一番違った味をもっていてね、珍らしい栄螺だった」と、理学士はまだ惜しそうに、空《から》になった殻《から》を振り、奥の方に箸をつきこみながら、舌なめずりをした。「やあ、いくら突ついても、もうでてこないや」
「僕の御馳走が、お気に召して恐縮《きょうしゅく》だ」大蘆原軍医は、ウィスキーをつぎこんでも、一向赤くならない顔をあげていった。「だが、食うものがボツボツ無くなり、こう腹の皮が突っ張ってきたのでは、一層睡くなるばかりだね。――それじゃ、どうだろう。これから皆で、一時間ずつ交替で、なにかこう体験というか、実話というか、兎《と》に角《かく》、睡気《ねむけ》を醒《さ》ます効目《ききめ》のある話――それもなるたけ、あまり誰にも知られていないという話《やつ》を、此の場かぎりという条件で、喋《しゃべ》ることにしちゃ、どうだろうかね」
「ウン、そりゃ面白い」と星宮理学士が、すぐ合槌《あいづち》をうった。
「いま九時をすこし廻ったところだから、これから十時、十一時、十二時と、丁度《ちょうど》真夜中《まよなか》までに、三人の話が一とまわりするンじゃ。川波大尉殿、まず君から、なにかソノ秘話《ひわ》といったようなものを始め給え」
「儂《わし》に口を開かせるなんて、罪なことだと思うが」と川波大尉は、ちょっと丸苅《まるがり》の坊主頭《ぼうずあたま》をクルリと撫《な》でながら、「どうせ三人きりのことだ。一人|脱《ぬ》けたって面白くあるまい。それじゃ、何か話そうか、ハテどんなことを喋《しゃべ》ったものか……」
第一話 川波大尉の話
「大蘆原《おおあしはら》さんが云ったとおり、本当にこれは此場《このば》かぎりの話なんだが、一昨年《おととし》の秋の事、南太平洋で海軍の特別大演習があった時の事だったが、演習もいよいよ峠《とうげ》が見えて来た四日目。場所は、退却を余儀なくされている青軍《せいぐん》の最前線にあたる土佐湾《とさわん》の南方五十|浬《カイリ》の洋上だった。
儂は、この青軍の航空母艦『黄鷲《きわし》』に乗っていて、戦闘機を一台受持ってた。こいつは最新型というやつではないが、儂達《わしたち》には永年《ながねん》馴染《なじみ》の、非常に使いよい飛行機だった。当時儂の配属《はいぞく》は、第十三戦隊の司令で、僚機《りょうき》として、同型の戦闘機二台を引率《いんそつ》していたのだった。わが青軍の根拠地の土佐湾は、いよいよ持ちきれなくなって、横須賀軍港《よこすかぐんこう》へ引移ることに決定した。多分、その日の夜に入《い》ると、北上《ほくじょう》してきた赤軍《せきぐん》は、勢いに乗じて、大挙《たいきょ》土佐湾の夜襲戦《やしゅうせん》を展開することだろうと、想像された。その時刻までに、わが青軍の主力は、前夜《ぜんや》魚雷《ぎょらい》に見舞われて速力が半分に墜《お》ちた元の旗艦《きかん》『釧路《くしろ》』を掩護《えんご》して、うまく逃げ落ちねばならなかった。それには日没前《にちぼつぜん》まで、航空母艦『黄鷲』を中心とする航空戦隊が、赤軍の出てくる鼻先を、なんとかして喰《く》い留《と》めねばならなかったのだった。
儂達《わしたち》の戦闘第十三戦隊の三機は、幾度《いくたび》となく母艦《ぼかん》の滑走甲板《かっそうかんぱん》から、空中へ急角度に舞いあがって、敵機とわたり合い、軽巡《けいじゅん》の戦隊を脅《おびや》かした。儂達の戦隊の活躍は、自分でいうのは少しおかしいが、実に目覚《めざ》ましいものだったよ。殊に僚機の第二号機に竹花《たけはな》中尉、第三号機には熊内《くまうち》中尉が単身《たんしん》乗りこんでいたが、その水際《みずぎわ》だった操縦ぶりは、演習という気分をとおりすぎて、むしろ実戦かと思われるほど壮快無比なもので、イヤ壮快すぎて、物凄《ものすご》いと云った方が当っているくらいだった。いつも三機|雁行《がんこう》の、その先登に立っていた司令機内のこの儂は、反射凸面鏡《はんしゃとつめんきょう》の中に写る僚機の、殺気だった戦闘ぶりを、ちょいちょい眺めては、すくなからず心配になってきたものだ。夕刻に近づくと、かねて気象警報が出ていたとおり、灰色の雲は低く低くたれ下って来、白く浪立《なみだ》ってきた洋上に、霧がすこしずつ濃くなってくるのだった。
(今夜は、どうしても一《ひ》と嵐《あらし》くるな)
味方にとっては、いよいよ事態は不幸に向っていった。西に傾《かたむ》いた太陽は、密雲《みつうん》の蔭にスッカリ隠れてしまったり、そうかと思うと急にその切れ目から顔を現わして、真赤な光線を、機翼《きよく》に叩きつけるのだった。丁度、そのときだった。あの一|大椿事《だいちんじ》が突発したのは……。
ここまで云えば、君達も感付いたろうが、この椿事は、翌朝の新聞紙に『大演習の犠牲。青軍の戦闘機二機、空中衝突して太平
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング