洋上に墜つ。乗組の竹花、熊内両中尉の死体も機影《きえい》も共に発見せられず。原因は密雲《みつうん》のためか……』などと書きたてられたあの事件なのだ。海軍当局の調査も、新聞の報ずるところとは大した相違がなかった。無論、現場《げんじょう》付近にいた唯一《ゆいつ》の人間である儂は、調査委員会の席上で証言をさせられてこんなことを云った。『青軍《せいぐん》の危急《ききゅう》を救うべく、敵前《てきぜん》に於《おい》て危険きわまる低空の急旋転《きゅうせんてん》を行いたるところ、折柄《おりから》洋上には密雲のために陽光暗く、加うるに霧やや濃く、僚機との連絡至難となり、遂に空中衝突を惹起《じゃっき》せるものなり』てなことを云ったので、不可抗力《ふかこうりょく》の椿事《ちんじ》として、両中尉は戦死と同格の栄誉を担《にな》ったわけだった。だが此処《ここ》に話がある!
 儂は僚友のために、実は偽《いつわ》りの報告をしたのだった。事実はこうだった、いいかね。あのとき、洋上を飛翔《ひしょう》していた儂は、いつの間にやら僚機から遠く離れてしまっているのに気がついたのだった。吃驚《びっくり》して後を見ると、遙か下の空で、二機はしきりに横転《おうてん》をやっているじゃないか。これは無論、儂の指令じゃない。なにか故障を起したのかなとも考えたので、儂は方向舵《ほうこうだ》を静かに廻しながら、尚《なお》も注意していると、どうも故障とは様子がちがう。一機が他の一機を執拗《しつよう》に追いかけているようなのだ。一機が、思いきった逆宙返《ぎゃくちゅうがえ》りをうって遁《のが》れると、他の一機も更に鮮《あざや》かな宙返りをうって迫り、機翼と機翼とがスレスレになるのだった。儂は、この追駆《おいか》けごっこが、冗談ではないことに直ぐ気がついた。このまま抛《ほう》って置けば、二人とも死ぬ。何とかして二人を引離す頓智《とんち》はないものかと考えたが、咄嗟《とっさ》のこととて巧《うま》い術策《すべ》が浮かんでこない。
 望遠鏡を目にあてて、よくよく眺めてみると、歯を剥《む》いて追っかけている方は、熊内中尉だった。追いかけられているのは竹花中尉、中尉の顔が、丁度雲間から現われた斜陽《はすび》を真正面に浴びて、儂のレンズの底にハッキリと映じたが、彼は飛行帽も眼鏡もかなぐり捨てて、片手を空《むな》しく顔前《がんぜん》にうち振り、彼の顔はキリストの前に立った罪人のように、百の憐愍《れんびん》を請《こ》うているのだった。『おれが悪かった! 何でも後から相談に応じるから、おれを死なせないで呉れ給え』と、そんな風に見える真青《まっさお》の顔だった。そして尚も、助かろうとして逃げた。竹花中尉には、熊内中尉の恐ろしい決心のほどが、ハッキリと判るのだった。
 実は二人の間には、こんな訳があるのだった。二人は元々K県出の、たいへん仲の善い僚友《りょうゆう》だったが、あの事件の時から一年程前に、儂も識《し》っているがAという若い女が、二人の間近かに現われてからというものは、急に二人は背《そむ》いて行った。そのAという女は、非常に眼と唇とのうつくしい、そして色がぬけるように白くて、真紅な帯や、真紅な模様の羽織なんかがよく似合う少女だった。笑うと、ちょいと開いた唇の間から、真白な糸切《いとき》り歯《ば》がニッと出てくるのが、また何とも云えない程可愛らしく見えた。そのAさんという少女に、二人が同時に惚れこんだのも、全く無理のないことだった。しかしお互に、相手の気持を知ると、二人は二十幾年の友情も、プッツリ忘れてしまった。彼等は、表面は何喰わぬ顔で勤務をしていながら、内心では蛇と狼とのように睨《にら》み合《あ》っていたのだ。彼等は悪竦《あくらつ》な手段で、お互《たがい》を陥《おとしい》れ合った。自分の血で、相手の骨を洗った。
 その結果、Aという女は、遂に竹花中尉の方へ傾いてゆき結納《ゆいのう》までとりかわされ、この演習が済むと、直ちに水交社《すいこうしゃ》で婚礼が挙げられることにまで、事がきまっていたのだった。あわれ、恋に敗れた熊内中尉は、悪魔におのが良心を啄《ついば》むに委せた。そこで中尉の恐ろしい復讐が計画されたのだった。
『竹花にあの女を与えてなるものか。また、自分を此処まで引張《ひっぱ》りまわした女に、素直に幸福を与えてなるものか』そういって熊内中尉は歯を喰いしばったのだった。『ようし、見て居《お》れ、竹花のやつを、地獄へひきずりこんでやるんだ。やつが、おれの計画に感付いたとき、どんな泣きッ面をするか。そいつを見ることが、ああ、せめてもの娯《たの》しみだ。吠《ほ》えろ、喚《わめ》け、竹花中尉!』
 熊内中尉の計画は見事に効を奏したのだった。儂があの時覗いた竹花中尉の『死』への反発『生』への執着《しゅうちゃく》に腫《は》れあがった相貌《そうぼう》は、あさましいというよりは、悪鬼のように物凄いものだった。さすがの儂も眼を蔽《おお》った。やがて気がついてみると、二機は互に相手の胴中を噛合《かみあ》ったような形になり、引裂かれた黄色い機翼を搦《から》ませあい、白煙をあげ海面目懸けて墜落してゆくのが見えた。それが遂に最後だった。戯《たわむ》れに恋はすまじ、戯れでなくとも恋はすまじ、そんなことを痛感したのだった。儂は、あの日のことを思い出すと、今でも心臓が怪しい鼓動《こどう》をたてはじめるのじゃよ」
 そう云って川波大尉は、額の上に水珠《みずだま》のように浮き出でた油汗を、ソッと拭《ぬぐ》ったのだった。丁度《ちょうど》その時、時計は午後十時のところに針が重《かさな》ったので、三人はその儘《まま》、黙々《もくもく》と立って、測定装置の前に、並んだのだった。

     3



   第二話 星宮理学士の話


「さて僕には、川波大尉殿のような、猟奇譚《りょうきたん》の持ち合わせが一向にないのだ。といって引下るのも甚だ相済まんと思うので、僕自身に相応した恋愛戦術でも公開することにしよう。
 さっき、大尉どのは、『戯れに恋はすまじ、戯れならずとも恋はすまじ』と、禅坊主《ぜんぼうず》か修道院《しゅうどういん》生徒のような聖句《せいく》を吐かれたが、僕は、どうかと思うね。それなら、ちょいと伺《うかが》ってみたい一条がある、とでもねじ込みたい。大尉どのの、あの麗《うるわ》しい奥様のことなんだ。あんな見事な麗人《れいじん》をお持ちでいて、『恋はすまじ』は、すさまじいと思うネ。僕は詳《くわ》しいことは一向知らないけれど、余程のロマンスでもないかぎり、大尉どのに、あの麗人《れいじん》がかしずく筈がないと思うんだ、いや、大尉どのは憤慨《ふんがい》せられるかも知れないけれどね――。で僕に忌憚《きたん》なく云わせると、大尉どのの結論は、本心の暴露《ばくろ》ではなく、何かこう[#「こう」に傍点]為めにせんとするところの仮面結論《かめんけつろん》だと思うのだ。大尉どのの真意《しんい》は何処にある? こいつは面白い問題だ――と、イヤにむきになって喰ってかかるような口を利くのも、実はこうしないと、これからの僕の下手な話が、睡魔《すいま》を誘《さそ》うことになりはしないかと、心配になるのでね。
 そこで、僕に云わせると、失恋の極《きょく》、命をなげだして、恋敵《こいがたき》と無理心中をやった熊内中尉は、大馬鹿者だと思う。鰻の香《におい》を嗅いだに終った竹花中尉も、小馬鹿《こばか》ぐらいのところさ。何故って云えば、熊内中尉の場合に於て、Aとか云う女を手に入れることは、ちょっとしたトリックと手腕さえあれば、なんの苦もなく手に入るのだった。Aは竹花中尉と結婚することにはなっているが、熊内中尉を別に毛虫のように芯《しん》から嫌っているわけではないのだから、いくらでも、竹花中尉との縁組《えんぐみ》をAに自らすすんで破らせる位のことは、なんなくできるんだ。何しろ相手は、東西も判らない未婚の娘なんじゃないか。
 人の細君は誘惑できないというが僕は二日で手に入れた記録がある。その細君を仮りに――そうだネB子夫人と名付けて置こう。色が牛乳のように白く、可愛《かわ》いい桜桃《さくらんぼ》のように弾力のある下唇をもっていて、すこし近視らしいが円《つぶ》らな眼には湿ったように光沢《こうたく》のある長い睫毛《まつげ》が、美しい双曲線をなして、並んでいた――というと、なんだか、川波大尉どののお話のAさんという少女に似ているところもあるようだね。とにかく其のB子夫人は、僕の食慾《アペタイト》を激しくあおりあげたのだった。食慾を感ずるのは、胃袋が悪いんだろうか、その唆《そその》かすような甘い香《か》を持った紅い果実が悪いのだろうか、どっちだろうかと考えたほどだった。だが、僕は日頃の信念に随って、飽《あ》くまで科学的に冷静だった。筋書どおりにチャンスが向うからやって来るまで、なんの積極的な行動もとらなかった。
 軈《やが》てチャンスは思いがけなく急速にやって来た。というのは、B子がその夫君《ハズ》と四五日間|気拙《きまず》い日を送った。その動機は、僅かの金が無いことから起ったのだった。その次の日は、彼女の夫君《ハズ》が出張に出かけることまで僕のところには解っていた。B子夫人はその日、某デパートへ買いもののため、彼女の郊外の家を出掛けたが、その道すがら突然アパッシュの一団に襲われたのだった。小暗《こぐら》い森蔭《もりかげ》に連れ込まれて、あわや狼藉《ろうぜき》というところへ飛び出したのが僕だった。諸君はそのような馬鹿なことがと嗤《わら》うかもしれないが、B子夫人も普通の婦女とおなじく、この昔風な狂言暴行を疑いもせで、泪《なみだ》を流して僕に感謝したばかりか、記念のためというので、奇妙な彫《ほり》の指環《ゆびわ》まで贈物として僕によこしたじゃないか。そのとき僕は、『御主人には黙っていられた方がいいですよ』と云うことを忘れなかった。心に空虚のあったB子夫人が、その胸に如何なる夢を描いたことやら、また其の夫君《ハズ》が出張にでかけた翌日、偶然のように訪ねていった僕をどんなに歓待《かんたい》したか。女なんか、新しがっても、本当は古い古いものなのさ」
 こう云って星宮学士が、胸の底まで気持よく吸いこんだ煙草の烟を、フーッと静かに吐きだしたが、この話を傍できいていた川波大尉の顔面《がんめん》が、急にひきつるように硬《こわ》ばってきたのに、まるで気がつかないような顔をしていたのだった。
「それから、こんな話もある」と学士は第二話のつづきを又語りはじめるのだった。「こいつは、僕の一番骨を折った女だったが、カッキリ半年も懸った。無論その半年の間、僕はこの女ばかりを覘《ねら》っていたのでは無く、沢山の若い女を猟《あさ》りあるいている其《そ》の片手間《かたてま》に、一つの長篇小説でも書くつもりで、じっくり襲いかかって行ったのだ。その女は、しっかりした家庭に育った九條武子《くじょうたけこ》のようなノーブルなお嬢さんだった。彼女の名前を、仮りにC子(とそう云って、星宮学士は何故かハッと呼吸を止めた)――そう、C子と呼ぼう。この少女は、はちきれるような素晴らしい肉体を持っているのに、精神的には不感性《ふかんしょう》に等しく、無類の潔癖《けっぺき》だった。すべて彼女の背後にある厳格な教育が、彼女をそうさせたのだった。二三度誘ったが、こりゃ駄目だと思った。そのままで賞味《しょうみ》してしまう手段はあったが、それでは充分|美味《おい》しく戴《いただ》けない。そう悟ったので、僕は一夜脳髄をしぼって、最も科学的な方法を案出した。幸い僕は家庭教師として、彼女に数学を教える役目を得たので、それで時々会っては、音楽会に誘った。次は映画の会へ連れてった。その映画も、教育映画から次第にロマンティックなものへ、それから辛《かろ》うじて上演禁止を免れたカットだらけの映画へ、更にすすんではカットのない試写ものへと移って行った。彼女は別に眉を顰《しか》めはしなかった。というのは、この速力が如何にも緩漫だったからだ。映画を
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