敵手の頸《くび》を締めつけた。学士は朦朧《もうろう》と落ちてゆく意識のうちに、頻《しき》りに口を大きくひらいては喘《あえ》いでいた。だが彼の執念《しゅうねん》ぶかい両手は、なおも大尉の急所を掴んでそれを緩《ゆる》めようとはしなかった。この儘《まま》に捨てておくと、二人とも共軛関係《きょうやくかんけい》において死の門をくぐるばかりだった。
「紅子、うう射て……ピストル、いいから……」
大尉の声は、切れ切れに、蚊細《かぼそ》く、夫人の援助をもとめたのだった。
このとき紅子は、いつの間にやら、右手にしっかりとピストルを握りしめていたが、夫大尉のこの声をきくと、莞爾《かんじ》とほほえんだ。
「いいこと!」
紅子のしなやかな腕がグッと前に伸びる。キラリとピストルの腹が光って、引金がカチリと引かれた。
「ズドーン!」
銃声一発――大尉と学士とは、壁際《かべぎわ》から同体に搦《から》みあったまま、ズルズルと音をさせて、横に仆《たお》れた。
ピストルの煙が、やっと薄らいだとき、仆れた二人のうちの一人が、フラフラと半身を起した。それは大尉にはあらで、意外にも星宮理学士だった。
彼は、紅子が一発のもとに射ち殺したのは、彼女の夫君《ふくん》である川波大尉だと知ると、咄嗟《とっさ》のうちに気をとり直し、威厳をつけて、ノッソリ起きあがると、フラフラと紅子の方に歩みよるのだった。
「星宮君。ここへ懸け給え」
このとき、静かに云ったのは、この場の生命のやりとりに、一と言も口を利かず、片腕もあげなかった奇怪の人物、大蘆原軍医《おおあしはらぐんい》だった。自分の名をよばれると、流石《さすが》の星宮理学士も、ギョッとして、その場に立ち竦《すく》んだ。
「星宮君。私の第三話が、もうすこしで、尻切《しりき》れ蜻蛉《とんぼ》になるところだった。幸い君は生命をとりとめたようだから、サアここへ坐って、あの話の続きを聞いてくれ給え」
軍医は、落着きはらって、空虚になった二つの椅子を指した。学士は、眼に見えぬ糸に操《あやつ》られるかのように、ヨロヨロとよろめきながら、やっとその椅子の傍まで近付くと、崩れるように、その上に腰を下ろした。
「……」
「さア、いいかね、星宮君。さっきは、僕に手術を頼んだ娘の次兄というのが、素晴らしい復讐方法を、妹をかどわかした男に加えるため、考えついた、というところまで話したのだったね。サアその続きだが、さて、あの女の次兄が考えだした讐打《あだう》ちというのはね、死をも怖れないと自称する人間に『死』以上の恐怖を与えることにあったのだった。それで次兄は、今夜妹を人工流産させることに決心したのだ。手術は四十分ばかりかかったが、私の手で巧く終了した。摘出されたのは、すこし太い試験管の、約半分ばかりを占領している四ケ月目の××××××だった。いいかね、その試験管の底に沈澱《ちんでん》している胎児は、その男と、あの可憐《かれん》なる少女とが、おのれの血と肉とを共に別けあって生長させた彼等の真実の子供なのだった。でも母親の胎内を無理に引離され、こうしているその胎児には、もうすでに生命が通っていないのだった。闇から闇へ流れさった、その不幸な胎児の、今日は命日なのだ。その胎児にとって、今夜のこの話は、本当の意味の通夜物語《つやものがたり》なのだ。
これだけ云えば、星宮君、君にはなにもかも判ったろう。あの胎児の父は、君なのだ。あの胎児の母は、ちどり[#「ちどり」に傍点]子《こ》と呼ぶ。さて此処《ここ》で、君から訊《き》かして貰いたいことがある。君に返事ができるかね。
先刻《さっき》、君は私の手料理になる栄螺《さざえ》を、鱈腹《たらふく》喰《た》べてくれたね。ことに君は、×××××、箸《はし》の尖端《さき》に摘みあげて、こいつは甘味《うまい》といって、嬉しそうに食べたことを覚えているだろうね。
それで若し、私が、あのちどり[#「ちどり」に傍点]子《こ》の次兄であったとして、いやそう驚かなくてもいいよ、先刻、君が口中で味《あじわ》い、胃袋へおとし、唯今は胃壁から吸収してしまったであろうと思われる、アノ××××が、栄螺《さざえ》の内臓でなくして、実は、君の血肉《ちにく》を別《わ》けた、あの胎児《たいじ》だったとしたら、ハテ君は矢張り、
『×××××を、ムシャムシャ喰べてみたが、たいへんに美味《おいし》かった』
と嬉しがって呉れるだろうか、ねえ星宮君――」
「ウーム。知らなかったッ」
と、ふり絞るような声をあげたのは星宮理学士だった。その顔面はみるみる真青《まっさお》になり、ガタガタと細かく全身を震《ふる》わせると、われとわが咽喉《のど》のあたりを、両手で掻《か》きむしるのだった。
ああ、時はもうすでに遅かった。いま気がついて、ムカムカと瀉《は》き気《け》を催しても、彼の喰った栄螺は、もはや半ば以上消化され、胃壁を通じて濁った血となったのだった。頸動脈《けいどうみゃく》を切断して、ドンドンその濁った血潮《ちしお》をかいだしても、かい出し尽《つく》せるものではなかった。彼の肉塊《にくかい》をいちいち引裂いて火の中に投じても、焼き尽せるものではなかった。彼は自己嫌悪の全身的な嘔吐《おうと》と、極度の恐怖とを感ずると、
「ギャッ」
と一声、獣のような悲鳴をあげて、その場に卒倒したのだった。呪われたる人喰人種――。
×
それを見届けると、大蘆原軍医は始めて莞爾《かんじ》と笑って、側《かたわ》らに擦《す》りよってくる紅子の手をとって、入口の扉《と》の方にむかって歩きだした。
今宵、紅子は、彼女の良人《おっと》、川波大尉を射殺して置きながら、それを振返ってみようともしないのは、どうしたことであるか。それは、川波大尉こそは、第一話に出て来た熊内中尉に、あの恐ろしい無理心中を使嗾《しそう》した悪漢だった。そのために、当時、鮎川紅子《あゆかわべにこ》と名乗っていた彼女は、愛の殿堂《でんどう》にまつりあげておいた婚約者の竹花中尉を、永遠に喪《うしな》ってしまったのだった。
いわば、今宵《こよい》の良人《おっと》射殺事件は、あたかも竹花中尉の敵打《かたきう》ちをしたようなものだった。この隠れた事実を、紅子が知ったのは、極《ご》く最近のことで、それを教えたのは、炯眼《けいがん》きまわる大蘆原軍医だった。今夜の紅子の登場も、無論、軍医の書いたプログラムの一つだった。
ここへ来て、この軍医を賞讃する前に、読者諸君は、すこし考えてみなければならない。それは、いくら愛する妹の復讐とは云え、彼女の産みおとしたものを、人間に喰わせるという手段が、人道上許されるものであろうかどうか。奇怪にも友人の細君だった婦人を、狎《な》れ狎《な》れしく、かき抱いてゆく大蘆原軍医は、誰よりも一番恐ろしい、鬼か魔かというべき人物ではあるまいか。
それはそれとして、二人の姿が、戸外の闇に紛《まぎ》れて、見えなくなった丁度その時、血みどろに染った二つの死骸が転っている実験室では、真夜中の十二時を報ずる柱時計が、ボーン、ボーンと、無気味な音をたてて、鳴り始めたのだった。
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1931(昭和6)年12月号
※「一ケ月」「四ケ月」「六ケ月」などの「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:ペガサス
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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