軽微《びじゃく》ながら心配の種になるラッセル音が聴こえるのだ。この患者の体力消耗が一時的現象で、このまま回復するのだと、肺尖加答児《はいせんかたる》も間もなく治癒《ちゆ》するだろうから、折角始めて得た子宝《こだから》のことでもあり、流産をさせないで其の儘《まま》、正規分娩にまで進ませていいのだ。だが若《も》し、この消耗が恢復せず、更に悪化するようなら、断然《だんぜん》流産をさせて置く方がよろしい。しからば、この女性について、見込みはいずれであろうか、と考えると、これがどっちにも考えられるのだ。私として、これは惑わざるを得ない事柄だった。
『もう一《ヒ》ト月待ってみませんか』
 と私は云いたいところだ。しかし、一ケ月後の人工流産では、すこし大きくなりすぎているので、母体の余後が少し案ぜられるのだった。けれども、私はそんなことを口に出して云わなかった。それというのが、以前この女の口から泪《なみだ》をもって聞かされた話があるからなのだ。
 この若い女には、彼女の胎児にパパと呼ばせる男がなかったのだ。と云って、その男が死んでしまったわけではない。早く云えばこの女は、親の許さぬ或る男に身を委せ、とうとう妊娠《にんしん》して仕舞ったのだ。男は、幣履《へいり》のごとく、この女をふり捨ててしまったのだった。彼女は、星宮君の云うが如きロシアの女には、なりきれなかったのだ。棄てられてしまうと、彼女はやっと目が覚めた。貞操を弄《もてあそ》ばれた悔恨《かいこん》が、彼女の小さい胸に、深い深い溝《みぞ》を刻みこんだ。それからというものは、彼女は人が変ったように終日《ひねもす》おのれの小さい室に引籠《ひきこも》って、家人にさえ顔を合わすのを厭《いや》がったが、遂には極度の神経衰弱に陥り、一時は、あられもない事を口走るようになってしまったのだった。
 彼女の家庭のひとびとは、彼女を捨てたその男を呪《のろ》ってやまなかった。中でも一番ふかい憤怒《ふんぬ》をいだいたのは、次兄にあたる人だった。次兄は彼女が幼いときから、特別に彼女を可愛いがっていたのだった。
『大きくなったら、あたいのお嫁さんに貰おうかなア』
 などと云って両親や、伯母たちに散々笑われたほどだった。そんなに可愛いがった妹が、救《すく》う途《みち》のない汚辱《おじょく》に泣き暮しているのを見ると、その次兄は、
『復讐《ふくしゅう》だ、復
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