云わせると、失恋の極《きょく》、命をなげだして、恋敵《こいがたき》と無理心中をやった熊内中尉は、大馬鹿者だと思う。鰻の香《におい》を嗅いだに終った竹花中尉も、小馬鹿《こばか》ぐらいのところさ。何故って云えば、熊内中尉の場合に於て、Aとか云う女を手に入れることは、ちょっとしたトリックと手腕さえあれば、なんの苦もなく手に入るのだった。Aは竹花中尉と結婚することにはなっているが、熊内中尉を別に毛虫のように芯《しん》から嫌っているわけではないのだから、いくらでも、竹花中尉との縁組《えんぐみ》をAに自らすすんで破らせる位のことは、なんなくできるんだ。何しろ相手は、東西も判らない未婚の娘なんじゃないか。
 人の細君は誘惑できないというが僕は二日で手に入れた記録がある。その細君を仮りに――そうだネB子夫人と名付けて置こう。色が牛乳のように白く、可愛《かわ》いい桜桃《さくらんぼ》のように弾力のある下唇をもっていて、すこし近視らしいが円《つぶ》らな眼には湿ったように光沢《こうたく》のある長い睫毛《まつげ》が、美しい双曲線をなして、並んでいた――というと、なんだか、川波大尉どののお話のAさんという少女に似ているところもあるようだね。とにかく其のB子夫人は、僕の食慾《アペタイト》を激しくあおりあげたのだった。食慾を感ずるのは、胃袋が悪いんだろうか、その唆《そその》かすような甘い香《か》を持った紅い果実が悪いのだろうか、どっちだろうかと考えたほどだった。だが、僕は日頃の信念に随って、飽《あ》くまで科学的に冷静だった。筋書どおりにチャンスが向うからやって来るまで、なんの積極的な行動もとらなかった。
 軈《やが》てチャンスは思いがけなく急速にやって来た。というのは、B子がその夫君《ハズ》と四五日間|気拙《きまず》い日を送った。その動機は、僅かの金が無いことから起ったのだった。その次の日は、彼女の夫君《ハズ》が出張に出かけることまで僕のところには解っていた。B子夫人はその日、某デパートへ買いもののため、彼女の郊外の家を出掛けたが、その道すがら突然アパッシュの一団に襲われたのだった。小暗《こぐら》い森蔭《もりかげ》に連れ込まれて、あわや狼藉《ろうぜき》というところへ飛び出したのが僕だった。諸君はそのような馬鹿なことがと嗤《わら》うかもしれないが、B子夫人も普通の婦女とおなじく、この昔風な狂言暴行を
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