そういうが早いか、清子はトランクを両手で持ち上げた。
「なにを云うんだ。横浜《はま》にいちゃ、生命がない。カンカン寅の一味は張り子の人形じゃないぞ」
「生命が危いくらい、あたし知っているわ。でも……でも、あたし死んでもいいのよ、政ちゃんの傍《そば》に少しでも永く居られるなら……」
 清子は憑《つ》かれたような眸《ひとみ》で、私の方に顔を向けた。
 壮平は気が転倒《てんとう》してしまって、一語も発することができないで居る。銅鑼は船内を一|巡《じゅん》して、また元の船首で鳴っていた。出発はもう直ぐだ。
 肚《はら》を決めた私は、イキナリ清子の手からトランクを取った。
「まあ嬉しい。あたし下りてもいいの」
「いや、いけない」
 私は手に持ったトランクをソッと下に下ろした。清子は顔を両手の中に埋《うず》めた。私はトランクの上に静かに腰を下ろした。そしていつまでも動かなかった。銅鑼はもう鳴りやんで、清見丸は静かに動き出した。
 満洲へ、満洲へ……。銀座に別れて満洲へ……。
 それもまた、いいだろう!
 折から、埠頭の方から、リリリリと号外売りの鈴の音が聞えてきた。私の眼底《がんてい》にはその号外の上に組まれた初号活字《しょごうかつじ》がアリアリと見えるようだ。――そのとき私は耳許《みみもと》に、魂をゆするような熱い息づかいが近よってくるのを感じたのだった。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「キング」
   1934(昭和9)年6月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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