《とたん》に、ひとで[#「ひとで」に傍点]のような彼女の五本の指が降りて来て僕の視線の侵入するのを妨げてしまった。僕は何故か階段に踏み止《とどま》った婦人の心を読むために、はじめて眼をあげて彼女の顔をみあげた。おお、これは又、なんという麗人《あでびと》であろう。花心《かしん》のような唇、豊かな頬、かすかに上気した眼のふち、そのパッチリしたうるおいのある彼女の両の眼《まなこ》は、階段のはるか下の方に向いていて動かない。その眼《め》には、なにか激しい感情を語っている光がある。で、私は彼女の眸《ひとみ》についてその行方《ゆくえ》を探ってみた。だがそこには長身の友江田先生の外になにものも見当らなかった。僕はしばらく尚《なお》も遠方へ眼をやったが矢張り何者もうつらなかった。そのときハッと或ることに気付いて友江田先生の顔を注目したのであるが、
「もう時間だ。やめよう」
と先生が俄《にわ》かにこっちを見て叫んだ。その声音《こわね》が思いなしか、異様にひきつったように響いたことを、それから後、幾度となく僕は思い出さねばならなかったのだ。気がついて僕は階段を仰ぐと、あの女の姿は、消えてしまったかのように其処に無かった。僕はその場に崩《くず》れるようにへたばった。
其の夜、下宿にかえった僕が、悔恨《かいこん》と魅惑《みわく》との間に懊悩《おうのう》の一夜をあかしたことは言うまでもない。翌日はたとえ先生との約束でも今日は行くまいと思ったが、午後になると物に憑《つ》かれたように立上ると制服に身を固めて、いつの間にやら昨日と同じく、「信濃町」駅のプラットホームに記録板を持って立っていた。その日も怪しい幻《まぼろし》の影を、昨日にも増して追ったのであった。時間の果《は》てんとする頃、前の日に見覚えた若い婦人が、階段を上って行くのを認めたが、この日は別に階段の途中に立ちどまることもなしに、唯《ただ》一般乗降客にくらべて幾分ゆっくりと上って行くことには気付いたのである。そのために僕は、その若い婦人の脛をほんの浅く窺《うかが》ったに過ぎなかった。友江田先生の顔色も窺ったが、気にはなりながらもそちらへ費《ついや》す時間はなかった。その翌日も又次の日も僕の身体の中には、「彼奴《きゃつ》」が生長して行った。斯《か》くて予定の七日間が過ぎてしまったあとには、僕の身体には飢《う》えた「彼奴」が跳梁《ちょうりょう》することが感ぜられ、それとともに、あの若き婦人の肢体《したい》が網膜《もうまく》の奥に灼《や》きつけられたようにいつまでも消えなかった。
2
翌年の春、僕は大学を卒業した。卒業に先立って僕達理科|得業生《とくぎょうせい》中の大先輩である芳川厳太郎《よしかわげんたろう》博士が所長をしている国立科学研究所から来ないかということであったから、友江田先生の意見を叩いてみた。友江田先生は大学に籍がありながら、同時に研究所にも席がある特別研究員だったから研究所の様子はよく知っている筈《はず》だった。
「……いいでしょう。君さえよいと思うのならね」と先生はしばらく間《あいだ》を置いて同意して呉《く》れた。僕は先生が二つ返事で賛成して呉れなかったのを不服に思った。それは勿論、先生の慎重なる一面を物語るものであったと同時に、「信濃町」事件(というほどのことではないかも知れないが)に於《お》ける先生の不審な態度も思い合《あわ》すことを止《や》めるわけには行かなかった。
四月になると、僕は研究助手として、はじめて国立科学研究所の門をくぐった。この国研は(国立科学研究所を国研と略称することも、其《そ》の日知ったのである)東京の北郊《ほくこう》飛鳥山《あすかやま》の地続きにある閑静《かんせい》な研究所で、四階建ての真四角な鉄骨貼《てっこつは》りの煉瓦《れんが》の建物が五つ六つ押しならんでいるところは、まことに偉観《いかん》であった。僕は第二号館にある物理部へ編入せられ九坪ほどの自室と、先輩の四宮《しのみや》理学士と共通に使う三室から成る実験室とを与えられた。そして研究は、国研の範囲と認める自由な事項を選定してよいと謂《い》うことで、四宮理学士と共に、特に所長芳川博士直属の研究班ということになった。四宮理学士は、背丈はあまり高くはないが、色の白いせいか大理石の墓碑《ぼひ》のように、すっきりした青年理学士で、物静かな半面に多分の神経質がひそんでいるのが一と目で看守《かんしゅ》せられた。僕よりは四歳上の丁度《ちょうど》三十歳で、友江田先生よりは矢張り四歳下になっていた。
僕は最初の一日を、今日から自分のものになった椅子の上にのびのび腰を下し、さて何を研究したものかと考え始めたが、一向に纏《まとま》りはつかず、考えれば考えるほど、今日の帰り路は、どう取って、定刻までに
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