信濃町まで出たものかと、そればかりが気になりだした。ところへヒョックリ四宮理学士が姿をあらわして、これから所内を案内するから附いて来給えと言う。僕は喜んで椅子から立ち上って一緒に廊下へ出た。学術雑誌で名前を知っている偉い博士たちの研究室が、納骨堂《のうこつどう》の中でもあるかのように同じ形をしてうちならび、白い大理石の小さい名札の上にその研究室名が金文字《きんもじ》で記《しる》されてあった。最後に豊富な蔵書で有名な図書室とその事務室とを案内してくれることとなった。先《ま》ず事務室へ入ると大きい机が一つと小さい机が一つと並んでいる外に和洋のタイプライター台があった。そして四方の壁には硝子《ガラス》戸棚が立ち並んで、なんだか洋紙のようなものがギッシリ入っていた。大きい机の前には一人の二十五六にも見える婦人が、黒い着物に水色の帯をしめて坐っていたが、四宮理学士が声をかけると共にこちらへ立ち上って来て、
「わたくしが佐和山佐渡子《さわやまさとこ》でございます」と丸い肩を丁重《ていちょう》に落して挨拶した。
「理学士佐和山さんです。×大を昨年出られた……」と四宮理学士が註《ちゅう》を加えた。僕はその名を知っていた。あの天才女理学士が、こんなに若い女性で、しかもこの研究所に居て洋服はおろか袴《はかま》もつけていない平凡な服装をしているのを発見して驚いてしまった。あとで知ったことだが、佐和山女史は図書係主任を兼任していてこの室《へや》に席があるとのこと、その前の小さな机の一つには一脚の椅子が空《から》のまま並んでいた。
「ミチ子嬢は何処かへ行きましたか?」と四宮理学士が訊《き》いた。
「さア、隣りに居ましょう」と女史は指を厚い擦《す》り硝子《ガラス》の入った隣室との間の扉《ドア》を指《ゆびさ》した。ミチ子嬢といわれる婦人の机の上には、一|輪挿《りんざ》しに真赤なチューリップが大きな花を開いて居り、机の横の壁には縫いぐるみの小さいボビーが画鋲《がびょう》でとめてあった。僕はなんとなくこの机の主のことが気懸《きがか》りになった。
 四宮理学士が扉《ドア》を開いて、となりの図書室を案内してくれた。僕はその室へ一歩を踏みこむなり、思わず「ほーッ」と声をあげてしまった。その室は三十坪ばかりの長方形の室であるが、四方の壁という壁には金文字の書籍雑誌が幾段にもぎっしりとつまっていた。広い読書机が二つほどすこし右手によって置かれ、左手には沢山の小引出を持ったカード函が重《かさな》っていた。そしてなによりの偉観は室の中央に聳《そび》え立つ幅のせまい螺旋《らせん》階段であった。それはわずかに人一人を通せるほどの狭さで、鉄板を順々に螺旋形にずらし乍《なが》ら、簡単な手すりと、細い支柱で、積み重ねて行ったものだった。思わずその下に立ち寄って上を見上げてみると、螺旋階段はスクスクと伸びて三階にまで達している。その三階の天井は首の骨が痛くなるほど随分と高かった。なんとなく、「ジャックと豆の木」の物語に出て来る天空《てんくう》の鬼《おに》ヶ|城《しま》にまでとどく豆蔓《まめづる》の化物のように思われた。螺旋階段の下には事務室へ通ずる入口の外にも一つ廊下に通ずる入口があった。螺旋階段を四宮理学士と二階へのぼると、ここもおなじような本棚ばかりの四壁《しへき》と、読書机とがあり、入口はない代りに、天井が馬鹿に高くつまり二階の天井は元来《がんらい》ないので、三階の天井が二階の天井ともなり、随《したが》って三階はバルコニーのようにこの室の上に半分乗り出していて、それへ螺旋階段が続いていた。
「三階へも一度上ってみましょう」と四宮理学士が言った。
 僕は自《みずか》ら先登《せんとう》に立って、冷い螺旋階段の手すりに恐《こ》わ恐《ご》わ手をさしのべたときだった。急に頭の上にドタンバタンという激しい音がすると共に階段の上からネルソン辞典が四五冊、足許《あしもと》へ転がり落ちて来た。
「あら、あら、あら」
 と甘ったるい声が天井から響くと、その急な階段を一人の女性がいと身軽にとぶように下りて来た。
「ミチ子嬢なのだナ!」
 僕は思った。初対面の愛敬《あいきょう》をうかべて上を仰いだ僕は鼻の先一尺ばかりのところに現われた美しい少女の面《おもて》を見つめたまま急に顔面を硬直《こうちょく》させなければならなかった。
「図書係の京町《きょうまち》ミチ子嬢。こちらは今日から入所された理学士|古屋恒人《ふるやつねと》君。よろしく頼むよ」四宮理学士の声は朗《ほが》らかであった。
「あらまあ、あたし初めてお目にかかってたいへん失礼をいたしまして……」と彼女は紹介者に負けず朗らかに謳《うた》った。僕はなんと挨拶《あいさつ》をしたのか覚えていない。ただ「初めてお目にかかって」と言ったミチ子嬢が、本当に、信濃
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